市民ブックレット 1 花崎皐平 「輝かしい過去」が「絶望の未来」の手を引いてやってくる。 国家主義の復活とそのイデオロギー内容 ―「国民の歴史」が唱う「絶望の未来」 はじめに  1999年は、日本現代史にとって時代を画する年であった。急速に台頭してきた新たな国家主義が政治を動かし、国家構造変革への歩みが加速された年といえるからである。新しい国家主義は、1990年代に、湾岸戦争に際しての国際貢献論議、カンボジアPKOへの自衛隊派兵、冷戦後北東アジアの安全保障についての論議などを通じて次第にその主張をのばした。とくに、いわゆる従軍「慰安婦」として性奴隷化されたアジア諸国の女性たちから日本国家の未済の戦争責任が告発され、彼女たちへの謝罪と賠償が政治問題となるや、性奴隷化への国家の関与を否認し、告発に反撃するナショナリズムの主張が、デマゴギーと低劣なレトリックを伴って急激に強まった。そして1999年は、日米ガイドライン関連法、国旗国家法などの法律が制定され、「国際紛争の解決の手段としての戦争」ができる国家、すなわち現日本国憲法の基本原理を事実上否定する国家体制への道が踏み固められたことによって特別な年となった。  1999年の末に、私は沖縄島北部東海岸にある名護市辺野古集落を訪れた。ここは、普天間町にある米軍海兵隊基地の県内移転候補地とされているところで、キャンプ・シュワブという海兵隊基地に隣接している。沖縄島北部は山原と呼ばれているが、なかでも東海岸は低い丘陵と森が海に迫り、平地は少ない。小さい入江の浜辺に点々と集落がある。辺野古では「へリポート建設阻止協議会 命を守る会」本部が置かれている浜辺の小屋をたずね、会の相談役と「ジュゴンの会」代表を兼ねる嘉陽宗義さんにお話をうかがうことができた。 嘉陽さんはたしか87歳と聞いたが、眼光炯々、語勢鋭く語る内容は、確固とした自前の思想に満ちていた。私たちの反対運動は、先祖代々おかげをこうむってきた海を尊んで守り、子々孫々に引き継ぐ真心に発するものである。祖先と子孫に恥じないよう務めを果たしたいという願いから出ている。したがって私たちの反対運動は、あくまでも礼儀正しく、道理を貫く文明的な手段によるのであり、賛成する立場を非難したり憎んだりするのではない、という趣旨であった。  私は、嘉陽さんのこの話を聞きながら、伊江島で反戦平和の思想家、実践者として生涯を貫いている阿波根昌鴻さんの思想と共通する哲学を身につけた人がここにも生きている、という感動を覚えた。  阿波根昌鴻さんは、1954年に米軍に土地を奪われたときにつくった「陳情規定」を、手作りの反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」に掲げている。そこには、「会談のときには必ず座ること」、「耳より上に手をあげないこと」、「大きな声を出さず、静かに話すこと」、「ウソ偽りを絶対に語らないこと」、「道理を通して訴えること」、「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が米軍に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること」が定められている(阿波根昌鴻著『命こそ宝─沖縄反戦の心』、岩波新書、1992年、参照)。  この非暴力抵抗の思想は、読んでわかるように、自他の人格的尊厳を重んじつつ真理と正義を貫くという倫理的立場を基本においている。  嘉陽さんの話を聞いた後、瀬蒿の「風と海の宿」という民宿に入ったら、ちょうど普天間基地移設問題でテレビ討論会が行われていた。田原総一朗司会で、パネリストとして稲嶺恵一沖縄県知事、嘉手納町長、有識者として島田晴雄慶応大教授、ジャーナリスト蔦信彦の4人が出席していた。席上、司会者が知事に、現地住民には会ったのかと質問した。知事の答えは「事前に会うと混乱するから(会わなかった)」であった。基地の移設という、現地住民を賛否両派に分裂させ、生活を根底から変えさせることになる決定に当たって、その決定の主体であるべき当事者の生の声を聴かずに事を進めるとは‥‥と私はおどろいた。地域自治体政治の原点は、首長が県民と苦楽を共にし、その痛みを痛みとして感じることではないのか。たとえ県内移設を行わざるを得ないとの判断に到達した場合でも、そのことによってこれまでの地域共同体が破壊され住民が分裂することへの痛みを自らの痛みとするのが、県政の責任者としての取るべき態度ではないのか。現場で、とくに少数派や弱者の声に耳を傾け、徹夜してでも話し合うことこそ、より深刻な「混乱」を避ける道なのではないか。  討論会の出席者は、こもごも「やむを得ない次善の策」、「現実的対応」という常套句を掲げて、県内移設の見返りに振興策という名で引き出すカネをどう使ったらいいかについて語っていた。いったんこの利害勘定の軌道に乗ってしまえば、基地建設についての県側の付帯条件、たとえば期限を十五年に限定するなどは空手形をつかまされ、やがて既成事実によって押し切られるであろう。私はこの討論を聴きながら、稲嶺県政には政策を、県民一人一人の平和と正義の実現を求める願いに照らして確かめつつ進める思想がないと思わざるを得なかった。在所に帰ってから、そういう批判と意見を手紙に書いて稲嶺知事と岸本名護市長に送った。その後、岸本名護市長の基地移設受け入れ声明が出され、2000年初頭の現在、賛成、反対の運動が、現地と全県を二分してはげしく闘われる事態となっている。  この沖縄の政治的現状は、日米安全保障条約によって枠をはめられたこの50年の日本国家の政治が、なにを基準にし、なにをしりぞけてきたかを示す標本である。沖縄は戦場としての犠牲に加えて、戦後、米国の軍事基地としての役割を強いられ、ほんらい本土が負うべき負担を押しつけられてきた。そして、いままた基地の県内移設をめぐって、その内部を引き裂かれ、苦悩を深めている。  私はこの間、戦後50年の日本国家が植民地宗主国であった大日本帝国の負債を清算せず、むしろ戦前からの負の遺産を相続してきた歴史に終止符を打ち、「共生」を基本に据えた日本列島社会を築くという課題に、自分はどう答えることができるかについて反省と思考を深めようとしている。その課題を考えることと、この沖縄の事態を本土の住民である者の倫理的、政治的な責任として受けとめることとは表裏一体の関係にある。 1、新国家主義の歴史観  その時司会をしていた田原総一朗が、『中央公論』誌の2000年1月号に『新しい「戦争の時代」が始まった』という評論を書いている。そこで彼は、現在を、日本が米国への従属によって平和と繁栄を享受し得た時代が終わり、やむをえざる自立を強いられる関係が始まった時代としてとらえ、自立する日本とその日本をたたく米国との関係は、「新しい戦争」の時代へ突入したと認識すべきだと論じている。彼がいう「新しい戦争」とは、米国との経済戦争を意味しており、彼のいう自立は、米国が押しつけてくる「アメリカ標準」を受け入れつつ、米国との経済戦争に勝つという自立であり、日米安保を廃棄して政治的にも自立を図ることを意味しない。  彼はこの自説を導くために戦後日本の政治・経済過程を概括しているが、その歴史観によれば、戦後日本がアメリカへの従属という道を選択したことは「すばらしく賢明な選択」であった。サンフランシスコ講和条約締結の後、当時の首相吉田茂は、「正しいか間違っているか、正か邪かの判断ではなく、得か損かを考えて」、主体的にアメリカへの従属を選択した。田原は、その選択を「大正解」だったとする。そして「この選択こそが、第2次大戦以後、日本を世界第二の経済大国にし、半世紀以上、一度も戦争に巻き込まれない平和を手にしたのだと何度でも強調しておきたい」(同誌、103ページ)とのべている。したがって、自立しても「アメリカとだけは仲良くする」という路線を変えてはならない、という。  この結論づけの際だった特徴は、戦後50年の日本の政治経済を論じて、日米関係以外の、とりわけアジアとの関係が全く無視されていることである。いや、そういっては正確ではない。戦前の歴史を顧みているところで、「満州国」の建国も、当時の国際関係でうまく立ち回われば国際的に認知され得たはずだという認識をのべているから、日本帝国の植民地支配の挫折を、欧米諸国の帝国主義の仲間入りさせてもらう交渉技術の拙さという見地から教訓化しようという論旨でならアジアにも言及している。この論理を今後に向けて適用すれば、これから再び政治大国の仲間入りするのだから、過去の失敗にまなんで自国の権益を主張し、他国を譲歩させる交渉技術を高めよ、ということになる。そうした点を含めて、この論文は、いま力を得つつあるナショナリズムの一側面を鮮明に示していると思える。  真か偽か、正か邪かの判断を捨てて、損か得かに判断の軸を置いたことを「大正解」とする根拠は、近い過去50年に日本国家と日本社会が獲得した富と繁栄に求められている。富と繁栄を唯一の基準として、敗戦後50年の日本国の政策選択を全肯定するのは完全に内向きの自己肯定であり、自己讃美である。この考え方に立てば、日本本土在住国民が沖縄の地域と住民に過大な犠牲を押しつけつつ安寧をかちえてきたことも、朝鮮戦争、ベトナム戦争をつうじて「繁栄」を享受してきたことも、「大正解」の中に入ることになろう。しかし私には、それらは恥ずべきことであり、「正解」などとはとても思えない。  正か邪か、いいかえれば正義か不正義かの判断を損か得かの利害衡量の判断に吸収させてしまうのであれば、あらためて問われている「戦争責任」と、戦後それを放置してきた「戦後責任」についての論議、アジア太平洋戦争中のアジア諸地域の民間人や戦時捕虜に対する数々の人権侵害に対する「責任」論はどうなるであろうか。被害者側の求める「責任」を加害者側が受けとめるためには、両者の「正義」についての判断が一致しなければならない。その合意が得られなければ、相互の言い分はすれ違いに終わるだろう。私は、日本国家を被告として、強制連行、強制労働、性奴隷化などの謝罪と賠償を求めて提起された数々の裁判に、日本国家が、国家を越える正義と人権の規範があることを認めて応答しないことに憤慨し、苛立ってきた。日本国民以外の諸個人の戦争被害に対して、日本国家が責任を認めて具体的な措置を講じないという事実は、戦後日本国家が、国家の行為を判定するより高次の正義の規範を否認する力によって支配されてきたという田原総一朗の認識を、その裏面から証明している。 2、国家主義復活の過程とそれをうながす思想状況  1990年代になって、近代日本の戦争を近代化の必然であったと弁護し、日本の国益を第一に考え、国家への忠誠を求める国家主義のイデオロギーが、大手を振って登場してきた。こうした国家主義に対する批判が、今日、政治的、社会的、思想的課題としてきわめて重要になってきている。その課題に向き合うために、まず戦後日本の「ナショナリズム」がどのような生態で機をうかがい、どこへこれから向かおうとしているのかを見たい。  1951年という戦後早い時期に、戦後ナショナリズムの動向を論じた丸山真男の論文「戦後日本ナショナリズムの一般的考察」がある。それを読むと、天皇制が支配する帝国形成とそのための聖戦遂行のシンボルに向かって集中していたナショナリズムの感情は、敗戦を契機に、そのシンボルの崩壊によって目標を失ったが、全く姿を消したのではない。それは「再び社会機構の底辺をなす家族、村落、地方的小集団のなかに分散還流した」と見なす方が「より適切」だろう。そして「本来、日本のナショナリズムが地方的郷党感情や家父長的ロヤリティ等の伝統的道徳の組織的動員によって形成されたのだから、中央への集中力が弛緩すれば、直ちに自動的に分解してその古巣に復帰するのは当然である。従って、この場合、過去のナショナリズムはその性格を質的に変えることなしに、ただ量的に細分化されて政治的表面から姿を消したにとどまる」(『丸山真男集』第五巻、岩波書店、106ページ)とのべている。彼はまた、古いナショナリズムに代わって「デモクラシー」が「国民の日常生活を内部から規定する積極的なシンボルになる」ことへの期待を表明する一方、現実にはそれはまだ「舶来品」であって、国民の生活様式にまで浸透していないと認識していた(同書、107ページ)。  また1953年の別の討論記録「民主主義の名におけるファシズム」では、次のような予測を語っている。今後の反動ナショナリズムはホーム・コンサンプション(国内消費)を第一目的とするもので、戦前のような対外輸出面は後退している。その国内消費用ナショナリズムは、家父長的あるいは長老的支配を国民的規模に拡大した戦前のナショナリズムと質的には同じもので、国民の漠然としたいまだ組織化されていないナショナルな感情を吸い上げていくために、直接的積極的には政治的意味を持たないようなナショナリズムのシンボルを復活させる手段をとるだろう。たとえば村祭り、神社信仰、修身、道徳教育、なかでも家族道徳や上下服従の倫理、伝統芸能や伝統文化(生花、茶の湯、歌舞伎、浪花節など)を復活させることは、戦前日本に対するノスタルジヤを呼び起こし、その反面で、「戦後の民主主義運動、大衆を下から組織化していく運動に対する鎮静剤、睡眠剤」としての政治的効果をもたらす。「いいかえると、大衆の関心を狭い私的なサークルのなかにとじこめ、非政治的にすることによって逆説的に政治的効果をもつ」。そして、天皇をもちあげる代わりに皇太子を、政治性と非政治性の限界のところでもちあげるやり方が成功すれば最大限の効果を持つ、と観測している。ただし、支配層ないし反動勢力の用いる政治的象徴は、以前のような全一性 を喪失してしまっている。天皇制と家族制度、万世一系と忠孝一致、国内統治と世界政策、東洋の精神文明と西洋の物質文明とを日本の国体に置いて総合するといった、情緒的な統一ではあるが皇国イデオロギーによる統一性はもはや求むべくもない。支配層やそのイデオローグの用いる政治的象徴は極度に断片化し、その都度差し当たり必要なシンボルを無統一に動員する御都合主義が見られる。したがってその都度ナショナリズムにならざるを得ない(「現代政治の思想と行動第一部 追記および補注」での引用参照。『丸山真男集』第六巻所収)。  戦前戦中のナショナリスティックな感情が、戦後に、社会機構の底辺へ量的に細分化されて分散還流し、政治的表面からは姿を消したが、そのナショナリズムの性格を質的に変えてはいないという考察は、現今その同じ質が新しいシンボルを得て急速に再集中し始めていることを説明可能にする。この丸山の、旧ナショナリズムの社会の基層部分への分散還流論、「国内消費用ナショナリズム」、「その都度ナショナリズム」など政治的イデオロギーとそれを支える感情の動向の分析は、その後の事態を論ずるために参照可能な座標軸を提供する。  高度経済成長期に入ると、日本社会では、企業が忠誠と統合のシンボルとして機能し、企業への帰属感情がナショナリスティックな帰属感情を準備する貯水池となった。つまり企業の繁栄と競争での勝利を第一に考えるイデオロギーの延長上に、それを守ってくれる強い国家への求めが結びつき、人々のナショナリズム感情を醸し出した。「企業戦士」という言葉が流行し、「国際競争」に勝ち抜く「経済戦争」イデオロギーが、従来の社会的な倫理規範を圧倒する影響を持つようになり、企業の海外進出や製品輸出が盛んになるにつれて語られるようになった「国際化」は、自国の政治的(軍事的)強力化への要求に還流する「国粋化」との正のフィードバック回路に入った。この時代に流行した「日本人」論は、自己と自己の所属する集団を快いものとして価値づけたいというナルシシズム要求に応えるもの、つまり「国内消費用」のナショナリズムであった。  同時にこの頃から、個人が、他人に対する顧慮抜きに自分の欲望と利害の充足を追求することをもてはやす傾向が生まれてきた。藤田省三が「安楽への全体主義」と名づけた生活様式の出現である。藤田は、1980年代現在の「現代社会」を、「戦前・戦後社会」から根底的な大変化を遂げた社会とし、その変化の大きさ・深さを、「第2次大戦の敗戦および直後の変化より大きいもの」と認識する。そして、現代社会においては、不快をもたらす物全てが無差別に一掃殲滅されることが期待され、「安楽」が他の全ての価値を支配する唯一の中心価値となるような精神の危機に落ち込んでいる、と指摘している(藤田省三著作集6『全体主義の時代経験』参照)。  高度経済成長期には、前期には列島改造・全国総合開発行政が、後期にはリゾート開発が、反対する住民の運動を力づくで押しつぶし、排除して進められた。それは、自己一身の欲望と利害の充足だけをめざす欲望エゴイズム、没倫理的な安楽志向によって支えられた土地の買い漁り、そしてその果てのバブル経済の崩壊となって終わった。それと前後してナショナリズムが、個々人の「安楽」を保障してくれる頼りがいのある国家への期待を代弁する言説として浮上してきた。官僚組織、企業組織、地域社会諸組織における男性中心主義体質、家父長制イデオロギーがその伸張を助けたという点も見逃してはならないだろう。  この時期にネオナショナリズムに対する抑止力の役割を演じた社会的勢力には、地域環境を破壊し、住民の健康と安全を脅かす大規模開発に反対する住民運動、女性差別、民族差別など各種の差別に反対する反差別市民運動、世界的な富の平等、人権の保障を追求して様々な活動を展開する非政府組織(NGO)、異なる文化や宗教や生活習慣を持つものの間の共生と相互尊重を追求する市民運動などがあった。それは、底流としては草の根の民主主義を育て、地域社会を市民としての諸個人中心に組み替える作用を果たした。しかし、中間層を形作る多数者は、政治的無関心への傾きを強め、大勢に順応する日和見主義、保守主義を居心地よい落ち付き場所とした。  90年代は、冷戦終結による世界秩序再編成期であり、湾岸戦争、米国の一極支配とアメリカン・スタンダードによる経済のグローバリゼーション、欧米中心の文明に対するイスラム文明世界の活性化などが起こった。日本は、新しい国家像についての論議が一時政治のテーマになったが、バブル崩壊後の深刻な不況とともに、欲望と利益の私中心主義、自己愛のナルシシズムが、差別、排外、国粋の言説に引き寄せられるようになった。  他方、アジア諸地域では、それまで冷戦によって封印されてきた民衆諸個人レベルからの戦争責任、戦後責任追求、戦後の「脱植民地化」で起こった民衆虐殺の真相究明などの問題が提起された。とりわけ韓国の女性運動によって、日本軍「慰安婦」問題が国家の関与した組織的犯罪として告発され、謝罪と賠償を求める運動が盛り上がったことは、果たすべき脱植民地化の広く深い問題が水面下にあることを象徴する出来事であった。日本の民衆運動にとっては、これまでに主体的に取り組むべき問題であったのに、これほど長い間この問題に取り組むことができなかったのはなぜかという深刻な問いが問われなければならなかった。  アジア太平洋戦争時の日本軍の組織的犯罪、女性の「性奴隷化」である「慰安婦」制度、731部隊による捕虜の人体実験、「南京大虐殺」などの史実に対して、右翼ナショナリスト組織とそのイデオローグは、事実それ自体の否認、抹殺し、歴史を国家の行為と国民の栄光を讃美する物語に書き換えようとしている。藤田省三が言うところの、不快な物を一掃殲滅する「全体主義」への傾向は、たんに生活様式における「安楽」への志向のレベルに止まらず、国際競争という名の「戦争」に勝ち抜くという名分によって、国家への帰属と排外主義を強め、自国の権益拡大をはかる国家主義と融合し始めている。 3、西尾幹二著『国民の歴史』の分析  『国民の歴史』は、「新しい歴史教科書をつくる会」が2002年度春までにつくろうとしている中学校歴史・公民教科書のパイロット本として企画したものである(新しい歴史教科書をつくる会編、産経新聞ニュースサービス発行、1999年)。西尾幹二は同会の会長であり、同会の委嘱によって本書を執筆した。内容は、テーマ別に歴史上の事例をえらんで解釈を下している論集であり、773ページもの分厚い本であるが、歴史教科書の指針になるものという委嘱側の期待を充たしてはいないように思われる。本の体裁は、一般読者向けを意識したつくりであるが、時系列に沿った歴史としての記述ではなく、特殊なイデオロギーにもとづく見解の披露なので、歴史書と言うよりは、歴史的出来事の主観的彩色図とでもいえばいい性質のものである。この本の基本的特徴は、「国民の歴史」を「文明圏」としての日本列島の独自性によってすっぽり包み込むところにある。近年、考古学は新しい発掘や研究の進展によって、従来の通説、定説をくつがえすめざましい発展をとげた。これまでの定説よりはるかに古くから日本列島には人が居住していたこと、縄文時代が考えられていたよりずっと長い期間であること、その時期にすでに農耕が始まり、大規模な定住集落があり、生活は厳しく寿命は短かったが、地域によっては基本的な生活の質においてゆたかな文化を享受していたところがあったことなどである。さらに、人類学を通じて無文字文化の価値の見なおしも進み、歴史を文字文化の段階からのものと考えるする歴史観への反省も行われている。  著者は、それらの新知見を、日本列島が今日まで、世界に類を見ない独自な文明圏としての連続性を保ってきたという自説の田んぼを潅漑する水として引き込む。  古典ギリシャまでの古代諸文明が衰退・崩壊する時期に、ユーラシア大陸の東西の端で「文明の新しい組み替えと再出発」を開始する地域があった。日本列島と西ヨーロッパ地域である。この時期の日本とゲルマン民族の動きが、のちに「近代社会を生み出していく地球上の大きな原動力」となった。日本は、古代国家を建設した7、8世紀以来、ユーラシア大陸の東西の文明圏から離れた独自の文明圏を築き上げて今日までそれを維持している。日本文化は東洋文化の一翼ではない。東洋、西洋をひっくるめたユーラシア大陸の文化全体とあい対している。  これが記述を導く歴史哲学的アイデアである。アイデアという言葉を使うのは、理論的認識の対象ではないが認識の目標を定める観念という意味と、観念的思いつきという意味と両方をこめてである。  このアイデアから、次のような国家の形成と存続に関する推理がもたらされている。国号と天皇号が定まった7、8世紀以後、千三百年を経て今もなお天皇制が続いている事実は、それ自体で日本民族の歴史がその時期を起点とするものではないことを物語っている。なぜならずっと古い時代から千三百年前の国家誕生時点へと上昇してきた国民の継続の意思が、その後の持続を可能にしてきたと解釈できるからである。つまりやがて「日本国民」となるべき集合を維持し続ける集合的意思が、日本列島に人が住み着き始めた遠い過去から働いていて、日本歴史の連続性を保証しているということになる。ヘーゲルも驚いて逃げ出しそうな形而上的精神の運動としての歴史の見方である。  別の言い方では、日本歴史は縄文文化によって背後から支えられ、「なにかしら縄文文明、縄文精神とも呼ぶべきもの」を背中に背負っている。そのような「なにか大きな、目に見えないパワー」が、現代日本にも生きつづけている」となる(70ページ)。神秘な民俗的な力が背後で日本の歴史を動かしているという神秘主義は、「神道」の伝統につながる思想とみなすべきだろう。  日本歴史の中に潜むそうした深い意志を象徴する例として、著者は縄文火炎土器、運慶、葛飾北斎の例をあげるにあたって、次のようにいう。  「山岳信仰とアニミズムに表れた古代日本人の信仰心にも自ずと示されて居るような、自然の奥底への自己献身、自然と自我との一体感、自然そのものを生かし、自然を対象世界とはしない、自然を自我と対立した世界におかない一如の体験の中から、まるで地底からわきあがってくるような天地万物のエネルギーが姿をなし、かたちを整えて立ち現れるということがたびたび、繰り返されたように思えるのである」(同書、296ページ)。 この国民の連続的意思を主体とする「文明圏」論から、国家の支配力を尺度とする「近代」についての把握が出てくる。西洋史では、大航海時代をもって「近代」の始まりとしている。根拠は、軍事力によるヨーロッパの勢威拡大である。日本の国力は、十6世紀に世界的レベルにまで高まり、日本人はこの時期に「近代」の意識を獲得し、表現した。すなわち信長・秀吉時代に全国の武力統一が達成され、軍事力経済力が充実したことにより、次の段階として外国諸国の支配と覇権を求めるにいたった。その展開は、「この当時の世界的規模で沸き起こっている『近代』意識の当然の自己表現」である。秀吉が、スペインのフィリップ2世に対抗する東の王者となろうとして、朝鮮に出兵し、朝鮮を経由して中国を支配し、北京に天皇をおき、自分は寧波を拠点に、天皇より高い地位で東アジア一帯を版図とする帝国を築こうとしたことは、「日本人の近代意識の最初にして最大の自己表現であった」(同、376ページ、傍点は著者のもの)。  読んでわかるように、ある国家集団が体現している文明に発展力があることの証拠として、その集団が外部へと支配権力を拡張する衝動とエネルギーがあることがあげられている。したがって、武力を行使して国外へ進出する行為は文明の発展にとって必然であり、それを正邪善悪の道徳的判断によって批判してはならない。むしろ、権力拡張への意思が世界制覇をめざすレベルにまで達しているかどうかが問題であり、その意識の発展度によって「近代」に到達しているかどうかが判定できる。その意味では秀吉の朝鮮侵攻は、日本人の意識が「近代」に到達したことを示す画期的出来事であり、失敗したからといって悪事を行ったと非難すべきではない。  『国民の歴史』を貫いているこうした歴史観は、民族間、国家間のエゴイズムの衝突が歴史を貫く必然であり、その必然を冷徹に認識して、軍事力経済力を軸とした集合力を自己中心的に発展させることが重要であるとする歴史観、権力強化を至上命題とする史観である。日本列島独自文明圏論は、そうした国家権力の強化を正当化するために用意されているものであり、私には「万邦無比の国体」論の新装改訂版に思える。  天皇を「現人神」とあがめることも、日本文明に固有の神観念に基づく伝統文化としてまるごと肯定される。天皇を「現人神」とするのは、人間とカミとの間が不連続でない日本のカミ観念に由来する万葉以来の表現であり、近代になっていまさらのように神格化が始まったわけではない。その誤解を解くには、「日本の神々の世界の多彩なる姿を、日本人であれば到るところで生活のまわりに見つづけてきたその伝統を素直な気持ちで顧みて、天皇もまたそうした流れの中の一つであったにすぎないという、ごく素朴な常識にたちかえることが必要で」、その素朴な常識に立てば「天皇は最初から神であり、今も神なのである」(同、401ページ)。まさに神道思想に基づく「国体」論の再編成というべきである。  このような歴史観は、「戦争」を歴史の必然とする論理を当然にも含む。「人間が生物であるかぎり、自分のエゴを守ろうとするのは本性であり、言論が尽き果てたときに、暴力によって決着をつけるという古代からの人間性に根ざした紛争処理の知恵は、『自然法』によって守られている」というのがその立場である。戦争は集団と集団のエゴイズムの衝突であって、戦争に正邪、善悪といった「余計な道徳」を持ちこむべきではない。戦争は政治の一部であって、その政治目的に照らして、成功か否か、賢いか愚かかを問うことができるだけである。戦争は人間の本性に属しているなにかであるから常に起こりうる。常に「戦争の用意をすることによって、その手段で政治が実行されるという現実的な戦略思想は忘れられてはならない」(同、447ー8ページ)。  平和時を戦争が背後で継続されている状態としてとらえ、平和時にこそ次の戦争に対応する準備体制を構築しなければならないのである。  戦争は決して忌避すべきことではなく、二つの決定的な正義が対立したときに、どちらが正義かを決める「最も人間的な方法」(同、473ページ)である。現代は核戦争を恐れるあまり、暴力によってどちらが正しいかを決める手段を封じられてしまった。そのため、人類が、解決できない新しい野蛮を抱え込んで身動きできなくなった状態にある。  国民国家の形成期に、戦争を辞さなかった国とそうでない国とのあいだには、その後の国家力にはっきりと差がついた。その時期に新興独立国アメリカは中南米の独立を擁護するモンロー宣言を発する気概があった。日本がアジアに関して同じ宣言を発してなぜ悪いのか。「大東亜共栄圏」の理念は、日本一国でアジア全体を守るというもので、失敗には終わったがその気迫は貴重である(同、512ページ)。  日清戦争は、新興国日本の「文明」が、「老廃国中国よりも高く、アジアにはもう一つの中心があることを証明する戦争」であった(同、529ページ)。日露戦争で世界の「大国」の仲間入りした日本が、欧米列強とのバランス・オブ・パワーを保つ必要から韓国を併合したのは、世界から「アジアの平和の最上策として支持」される措置であった(同、534ページ)。  日米の太平洋での戦争は、「同時期に勃興した二つの若き太平洋国家が直面した”両雄並び立たず”の悲劇」であり、第2に、日本が登場したことによる近代史上始めての「欧米キリスト教文明の外側、あるいは外側とのボーダー」での「人種間闘争の色濃い戦争」であった(同、596ー597ページ)。侵略戦争というなら「お互い様」である。日本は、欧米文明に根深い人種差別によって迫害され、それと戦って敗れたのだ。日本には反西欧アジア十字軍という「立派な名分が用意されていた」のに、それを存分に活用できない政治的失敗を犯した。日本は、白人の人種差別に基づく支配に「たった一国で立ち向かい、集中砲火を浴び、ついに息の根を止められた」のであり、「起用に賢く立ち回れなかったからといって」、その精いっぱい生きて戦ったことをどうして軽々に非難できるのか(同、611ページ)。「悲劇に終わった歴史もまた自分のいとおしい肉体の一部」(同、613ページ)である。  このせりふを聞くと、水に映った自分の姿に恋したナルキッソスの自己愛が思い出される。自己肯定が自己陶酔にまで高じたものかもしれない。また、著者のこうした言説は、人種差別主義の土俵に乗って差別思想をあおる働きを持つ。国家間、民族観、個人間の対立を白色人種対有色人種という人種間対立に帰着させ、その対立を本質主義的に構築する言説だからである。  歴史観に道徳を持ち込むべきではないという立場から、著者は「人類の法廷」を否認する主張に多くのページを割いている。歴史をたどると、西洋諸国の「国際社会」のルールは、自国の利益のために、戦略的に相手国と協定や条約を結ぶ諸国家間の駆け引きの産物であり、それは、東アジア人から見れば「正義の仮面をかぶった悪魔の顔」である。しかし表向きは、万国に通じる「道徳的公法」の体裁をとっていて、「強権の下に甘い文明の香りを漂わせている」(同、435ページ)。人類普遍の倫理などを説くのは特殊利害を普遍利害といいくるめるまやかしである。「人類の法廷」の設定は、なんらかのイデオロギーに立って正邪を定める行為であり、「諸国民の上になんらかの法廷を設けて、それによってルールを決め裁くという発想は、すぐれて西洋的なキリスト教的な『審判』の思想に基づくのである」(同、467ページ)。国際法は、「もともとヨーロッパ中心主義の、そしてヨーロッパ人にとって自己の戦争を優位かつ合理的の展開するためのルールづくりとしてつくられた」もので、「その底には異教徒への蔑視と、コントロールの術をどこかで必ず内包していたに違いない法的規制」であった(同、458ページ)。ニュルンベルク裁判は、「人道に対する罪」を諸国家を越えた正義の立場から裁いたものなのではなくて、戦勝国の力による勝利を前提にした相対的な裁きにすぎない。  「『人道に対する罪』などという新しい普遍的な正義の尺度もまた、よく考えてみれば、しょせんはフィクションであり、にわかごしらえの約束であり、相対的な一観念でしかないであろう。神ならぬ身の人間が、あらゆる集団を超越する尺度をつくろうとするならば、人間が人間という種族をも超えた立場に立とうとすることであり、それはどこまでいっても仮の尺度にほかならないからである。人間である限り、自分というもの、自分が属している集団というもの、自分が生きている生活文化というもの、国家というもの、それを捨てられるわけがないからである」(同、470−471ページ)。  日本国家は国家賠償を支払うという措置によって、敗戦のツケはすでに払っている。戦争は犯罪ではないのだから、戦争中、個人に対してなされた行為を謝罪をするとか賠償することなど必要ない。  その他にも批判の対象として取り出すべき多くの議論があるが、新国家主義イデオロギーの骨格をつかむという視点から、私としては以上のような言説に注目した。  あらためてその特徴を整理すると、  1、日本列島の歴史を、ユーラシア大陸の諸文明に対峙並存する独自の文明圏の形成発展の歴史とする。日本国家と国民は、縄文以来のその文明の連続性に支えられている。その文明の精神を表現するものとして天皇を現人神とする思想があり、それを根拠とする天皇制の統治システムがある。  2、人間集団が自己の生存と利害を守るために他の集団に対して暴力をふるう戦争は、その本性に属している。人類の歴史は、国家と国家、民族と民族のエゴイズムの衝突を不可避としている。戦争は二つの正義が対立したとき決着をつける正当な手段である。文明間、国家間の対立は、力の均衡による並存をルールに反映させる以外、対処できない。戦争に正邪、善悪の道徳的判断を適用してはならない。  3、近現代の西洋と東洋、欧米とアジアの対立の根本には人種間抗争がある。敗戦後の日本社会が受け入れた、欧米流の民主主義、人権、個人の自立と自由のイデオロギーは、欧米文明の押しつけであり、権力支配の欲望を覆い隠すためにふりかけられた甘い香りにすぎない。欧米の説く普遍主義はその背後に人種主義と自分たちの利害を中心にした計算を隠し持っていることを見抜かなければならない。それを人類普遍の倫理だと信奉するのは、敗戦によるショックで陥った精神上の敗北主義にほかならない。  4、そういうまやかしの普遍主義にまどわされて、国家、国民の利益を主に考える自国中心主義を手放してはいけない。国家の軍事経済政治力を強化し、国際社会に日本国家の特殊利害を堂々と主張しなければならない。 なお細分することも可能だが、今はこの4点にまとめておく。 4、対決の構図  一節でふれた田原総一朗の戦後史に関する見解と西尾幹二の『国民の歴史』とは、正邪善悪の倫理的判断によらずに利害損得の判断に立って歴史を評価せよ、という認識で一致する。また、国民国家システムの許での国際社会は、自国中心のエゴイズムが衝突と妥協を繰り返す闘技場であるから、そのパワーゲームを勝ち抜く腕力と交渉技術がなにより重要であるというイデオロギーにおいても合流するであろう。 西尾の思想は、対米戦争を始める前の日本で支配的だった欧米対アジアの対立構造についての言論をほぼそっくり受け継いでいる内容である。白人による有色人種差別、アジアの自衛と欧米の支配からの脱却、その盟主としての日本、大東亜共栄圏構想が持っていた進歩的で文明的な意義などが引き継がれ、肯定されている。とりわけ不快なのは、人種・民族差別思想を復活させ、日本文明を全肯定する裏返しとして、欧米文明に対する不信と怨恨と復讐の感情、中国や南北朝鮮に対するあからさまな蔑視を煽動している点である。  こういう言説が教科書化されるならば、自己利害の一方的追求が他者にどのような影響を及ぼすかについて配慮し、共生の道を探る方向ではなく、個人的にも集団的にも損か得かだけを考え正邪善悪を顧みる必要はないという方向、いまは個人の思想傾向にとどまっているその傾向を、日本「国民」にとっての利益をなりふり構わず追求する国益中心主義に合流させ、地域紛争への軍事的介入という形態での参戦国家化をめざすことが「国益」に合致することだという世論を盛り上げる役割を果たすことになろう。  米国は、近未来の地域紛争が朝鮮と中近東で起こる可能性に対処する「二正面戦略」を立てているという。日本国はその「戦略」に内属しつつ、参戦を通じていわゆる「先進」諸国内での権力的地位を拡大強化することを「国策」とすべきだというイデオロギーが、「大国」としての国際社会への責任を大義名分に、現に盛んに訴えられている。今日のナショナリズムは、そうした「国策」を、自己の利益に合致する方針として支持する「国民」を育てようとしている。  このような思潮に対して、今日の社会を生きる諸個人のコモンセンス(日常の思考と行為の枠組み)としてどのような哲学が自覚されるべきであろうか。  西尾幹二は、日本列島文明史を独自に価値づける事柄として文明と歴史が1万年前から途切れずに連続してきていることを強調している。しかし、歴史の連続性をより深く、より根本的に支えているのは、三十六億年前からの生命の持続である。悠久の昔からの遺伝情報を受け取り、環境との応答を通じて進化の連続につらなり、意思と行動の自由を得ている。歴史観の基礎は、そうした生命の継続と発展への畏敬とその尊厳の認識に置くべきである。その畏敬と認識によって、文明史は宇宙史と接点を得るし、個的であると同時に類的な生命の生産と再生産を営む諸個人に価値を置く生活者のコモンセンスと一致することになる。文明史を、風土、地域、人種、民族、国家などの特殊な要因をあげて、他から差別化して価値づける排他的、自己中心主義的なイデオロギーに与してはならない。  人間論においては、人間を、自己の欲望充足を追求する自己中心性においてだけとらえるのは、一面的な、ゆがんだ認識である。たしかに人間は、他の生物同様、自己中心性なくしては生きてこられなかった。その事実認識は大事であるが、同時に、家族や社会を作って生きてきた経験から、その自己中心主義が行き過ぎると自己を滅ぼすことも学習してきている。人間が歩んできた歴史と文化を振り返って人間とはなにかを推論する哲学的認識に際しては、自己愛と他者愛の感情の両方を視野に入れる立論が可能であり、また事実に即している。 人類の全体がその規範に従うべき普遍的倫理の定立は可能かという問いは、今日の世界が切実にその答えを求めている問いである。たしかに一面から見れば、その規範の実効化は、これまでのところ挫折の繰り返しである。「人は人を殺してはいけない」という格率は、いつもどこかで戦争が起こり続けているという事実によって裏切られている。その現実を楯にとって、普遍的な倫理の可能性を説く立場をお人好しの楽観主義、有害な観念論と言い立てられないことはない。しかし、それでは歴史から希望を育む思想を引き出すことはできない。逆に、この著者のように、人間は自分ではどうにもならない自己中心性を生得としているのだから、それが悪を生み出す場合をも必然として受容し、その必然の永久不断の反復露呈に耐えよという、希望のない諦観論を引き出すことに他ならない。  人類がさまざまな壁を超えて連帯し、共生する未来を構想し、その理想に現実を近づけること、それがくり返し裏切られるとしても希望を失わないこと、人間はよりよい社会と人間のあり方を求めつづける存在であること、そうしたメッセージを歴史の中から探り出すことが、歴史学と歴史教育のつとめではなかろうか。  この本を終わりまで読んでみておどろいたことは、どこにも希望の光が見られず、暗い不安と絶望だけが語られていることである。終章「人は自由に耐えられるか」では、日本列島の文明の底に働く霊的なパワーを説く前半とは打って代わって、現代がやがて来る没落をなすすべなく待っている時代であるというメッセージがのべられている。人々は、自由の過剰がもたらす不安と空虚感にさいなまれ、生きることへの退屈にまとわりつかれており、「未来には輝かしいものはなにもない」という。  神や仏を信じることができた時代はすでに過去となっており、「この長い歴史をめぐる物語は、ついにそれらを信じることができない時代に立ち至った、人間の悲劇の前で立ち尽くしている自覚を持って、閉じなければならないのは遺憾である」(同、767ページ)というペシミズムに沈み、構文ももつれた文章で、全巻が終わる。  巻を閉じて、じつはこの思想の虚無を埋めるものが、日本列島「文明圏」論の神話であることが見えてくる。結論的にいうと、天孫降臨の神国日本の神話を、超個人的な民族パワーを信仰するオカルト宗教的神話として復活させているのである。そして、この神話と「国難」の脅しによって、国家主義への翼賛を調達しようとしているのである。  20世紀前半の日本が、植民地とアジア地域での覇権獲得のための戦争をくり返したあげく迎えた敗戦を深く反省し、その過ちをくり返さないためにそれまでとは原理的構造的に異なる国家と国民のあり方を模索し、実質化しようとしてきた歴史─それが最初から不徹底であり、体系としての一貫性を欠いていたために徐々に巻き返されているにしても─を全否定し、その時代を跳び越して過去との連続性をつけようとした『国民の歴史』論が、そのようなメッセ−ジで終わっていることは、別の意味で深刻な問題をはらんでいる。なぜなら、人間のためのよりよい社会への希望は持てないという虚無意識を基盤とした権力肯定のイデオロギーは、やがてそれを批判する意見を禁止し、総力戦へと国民を駆り立てる全体主義の温床となるであろうからである。