わが子が「登校拒否」で教えてくれたこと 〜「教育改革」を巡る議論に参加しませんか!〜 野村 俊幸 函館・登校拒否と教育を考える親の会「アカシヤ会」会員 第1章 問題提起〜今なぜ「教育改革」なのか ・根強い「登校拒否」への無理解や偏見 ・日教組全国教研集会に参加して 第2章 わが子の「登校拒否」から学んだこと 〜日教組第49次教育研究全国集会「いじめ・不登校」分科会報告書より〜 ・わが家の娘たちの場合 ・親たちの不安について ・学校や教育行政に望むこと ・登校拒否は「問題行動」か 第3章 巧妙な国家統制を目論む「21世紀構想」 ・「衣の下から鎧」が見える報告書 ・「統治行為」と「サービス」に教育を峻別 ・教育は「国家の権利・子どもの義務」 ・「義務教育3日制」にひそむ子どもの選別 第4章 「構想」に対抗する教育改革の方向性 ・「義務教育を守れ」の運動は無力に ・親や学校の不安につけこむ「構想」 ・「消費者主権」の教育クーポンに説得力 ・チャータースクールなどを手がかりに ・対抗軸はオルタナティブな教育の創造 第5章 一歩前へ〜親や学校に求められているもの ・全ての学校現場で「休む権利の保障」を ・「休む権利の保障」は学校の今を問い直す ・学校をもっと「身軽」にする取り組みを ・「納税者の反乱」をしっかり受けとめよう ・学校も「情報公開・説明責任・政策評価」のを ・最も大切なのは親の意識改革 第1章 問題提起〜今なぜ「教育改革」なのか (1)根強い「登校拒否」への無理解や偏見 登校拒否・不登校、いじめ、学級崩壊、高校中退、ひきこもり、非行など、子どもたちを巡る様々な「問題」が、大概はマイナスのイメージを持って連日のように報道され、また、教育現場の「苦闘」や家族の苦悩の様子などが伝えられている。さらに、「神戸事件」をはじめ、昨今の京都や新潟の事件など、青少年による特異な犯罪事件が続発する中で、これまでの教育のあり方や家庭の変容といったことが、否定的なニュアンスで語られている。 これらの、大きくは「教育問題」と括られる現象は、子どもたちの置かれた状況を映し出す鏡であることには間違いないが、それをどのように受けとめるかによって、子どもたちに対する家庭や学校、社会の関わり方は、大きく違ってくる。もちろん、犯罪行為やいじめそのものは決して許されることではないが、彼らをそこまで追いつめた背景や要因を問うことなしに、厳罰主義や管理強化で臨んだところで、事態は改善されないであろう。  また、登校拒否の子どもや親にとっては、学校に行かないこと自体が子どもの弱さやわがままであり、家庭の「教育力」の低下に起因しているのではないか、これを「放置」していると、ひきこもりなどの「社会不適応」に陥るのではないかといった見方が、社会の中には依然として根強くある。さらには、非行等の反社会的問題行動の温床となるという見方すらあり、青少年事件の報道にも、その事件との因果関係を明示しないまま「少年は不登校で状態であった」などという記述が数多く見られる。いずれにしろ、登校拒否の子どもや親にとっては、以前に比べるとだいぶ社会の理解が進んできたとは言え、依然として非常に住み心地の悪い状況は改善されていない。 (2)日教組全国教研集会に参加して 私は、娘二人の登校拒否と十数年付き合う中で、否応なくこれらの問題に関心を持たざるを得ず、「親の会」などの活動にも多少関わってきた。そのような中で、さる1月、私は北海道教職員組合の推薦により、金沢市で開催された日教組第49次教育研究全国集会・特別分科会「いじめ・不登校」において、「わが子の『登校拒否』から学んだこと」というレポートを発表し、討論に参加する機会を得た。  そこでまず、急速に政治課題ともなりつつある「教育改革」を巡る議論の参考になればと考え、次章でそのレポートを紹介させていただく。その上で、今後の教育改革論議に大きな影響を与えるであろう「21世紀日本の構想」懇談会報告について、登校拒否を通じて学んだことを手がかりに、批判的な検討を行いたい。そして、子どもたちが生き生きと暮らしやすい社会を目指すために、今後の「教育改革」はどうあるべきかについて拙見を述べたい。  読者の皆様から、積極的にご意見・ご批判をいただければ幸いである。 第2章 わが子の「登校拒否」から学んだこと 〜日教組第49次教育研究全国集会「いじめ・不登校」分科会報告書より〜 わが家の娘たちの場合 1 長女を追いつめた学校へのこだわり  現在25歳の長女が登校拒否を始めたのは、10数年前の中学2年の時であった。当時は登校拒否についての情報も理解も乏しく、親は何としても学校に行ってもらいたいとの一心で、無理矢理車に乗せて連れて行ったり、学校もまた熱心に学校復帰の働きかけをした。中学3年になり、このままでは高校へ行けないということで、留年してもう一年頑張ろうということにしたが、このことが長女をますます追いつめることになってしまい、外出できずに昼夜逆転の生活となり、気持ちも激しく落ち込むなど、心身ともにズタズタの状態にしてしまった。  私たちも娘の状態を見かねて、取りあえず「学校に行かなくてもいいよ」とは言ったものの、子どもの感性は鋭いもので、本音のところでは学校に行ってほしいという親の気持ちを娘は見抜いてしまい、そんな親の気持ちに応えられない自分を責めるということで、彼女をますます追いつめてしまった。今でも当時を思い起こすと、長女には申し訳ない気持ちで一杯になる。  結局、私たちは「高校進学しなくてもいいのだ」ということに思い至り、タテマエではなく本音で学歴や進学へのこだわりをやめることで、彼女との信頼関係を取り戻すことができたように思う。その後、紆余曲折を経ながらも、彼女はアルバイトなどをしながら通信制の道立有朋高校を卒業、社会人となり、良き伴侶を得て二児の母として元気に暮らしている。 2 「明るく元気な登校拒否」を歩む次女  次女の場合は小学4年生から登校拒否となり、中学進学時に2ヶ月ほど通学したが、その後は全く行かないで、99年春、中学を無事卒業した。  長女には誠に申し訳ないが、長女の教訓から、学校に行かないという生き方が次女の個性なのかもしれないと受け止め、次女に対しては一切登校の働きかけはせず、学校にもそのことをきちんと話をし、登校刺激をしないようにお願いして、理解してもらった。次女は次女なりに様々な葛藤や悩みはあったであろうが、親も本人も登校拒否をプラス思考で考えたことで、お陰様で元気に成長、現在は姉と同様に通信制高校に在学、函館ダンスアカデミーに所属して、大会やイベントなどであちこち飛び回っている。  結果的にわが家の場合、通常の学校というルートを通らなくても、長女も次女も無事に成長し、現在は元気に生活している。むしろ、学校へのこだわりを捨てることで、より生き生きした生活を送ることができたように思う。 ※「いじめ」問題との関連での補足 恥ずかしいことであるが、長女が登校拒否になったひとつのきっかけに、相当にひどい「いじめ」があったことを、かなり後になってから知った。長女の話では、クラスの女子生徒が幾つかのグループに分かれて、トイレに行くのも一緒といった行動になじめず、どのグループにも属さなかったために、次第に無視され孤立していく中で、何人かの男子生徒から執拗な言葉の暴力(時には物理的な暴力もあったとのこと)によるいじめを受けたそうである。しかし、学校を休むということなど考えられず、「ここで負けては自分が駄目になる」と必死の思いで通学していたとのことであり、「親に心配をかけたくない」「自分の弱さ見せたくない」などの思いから、親には話しできなかったと言う。そんな状況を何も知らず、疲れ果てて登校できなくなった娘に対し、必死になって学校に行かせようとした自分の行為を、今更ながら後悔している。 次女が中学校に通学したときも、周囲から「浮く」状態となり、いじめを受けた。小学高学年の時に登校していないので、学校内での「振る舞いの要領」が良くわかず、例えば、授業で先生の質問の答えが分かったならば「手を挙げないと先生に悪い」と思って必ず挙手するとか、音楽の授業で「元気に歌うように」と言われたのでその通り声を出したら自分だけが目立ってしまったとか、色んなことがあって「変わった子」と見られ、一部の女子グループからいじめられた。そんな次女の様子を、ある先生が「君は帰国子女のようだから」と表現したそうであるが、巧い例えだと感心した一方で、そのような子どもが住みにくい学校ならば、無理に行くこともないと親も思うようになったし、次女はどちらかと言うと、自分から「学校を見限った」という雰囲気であった。だから、登校しなくなってからも、いじめグループ以外の仲の良いクラスメートとは、放課後や休日は一緒に遊んでおり、その交友は今も続いている。 親たちの不安について 函館では、登校拒否と教育を考える親の会「アカシヤ会」が7年前から活動をしており、私たち夫婦も参加させてもらっており、この会で多くのことを学び、大変に励まされた。会では毎月例会を開いて、経験を語り合ったり、情報交換などを行っているが、登校拒否をめぐる親の不安については、次のようなことが数多く話題にのぼる。 1 学力が遅れ進学できないのではないか。 2 学校に行かないと社会性や適応力が身につかないのではないか。 3 学校くらい我慢できないと世の中に通用しないのではないか。 4 何もしないでゴロゴロしていると無気力人間になるのではないか。 5 学校に行かないのなら、せめて◯◯をしてほしい…。 6 学校とどのように関わったらいいだろうか。  学校に行かないわが子を毎日目の前にすると、親がこのような不安を持つのは当然かもしれないが、「親の会」での話し合いなどを通じて、私は次のように考えるようになった。 【1について】  そもそも「学力」とはなんだろうか?「より良い」進学のために高い点数を取ることなら、そんなに意味あることとは思えない。大切なのは「生きる智恵・力」ではないだろうか。それならば、今の学校以外にも、それを獲得する様々な場やルートがあると思う。 【2について】  「学校」だけが社会性を身につけるところなのだろうか。現在の学校システムや秩序に「適応」できることが、それほど意味のあることだとは思えないし、現在の学校という「時間と空間」に「合わない」子どもがいても不思議ではない。学校以外で自分らしさを発揮できる子どもがいてもいいし、現に、わが家の娘たちはそうであったと思う。 【3について】  必要な「がまん」もあれば、無意味な(場合によっては有害な)「がまん」もある。確かに、学校もひとつの組織・機構であるから、一定の秩序やルールが必要だし、その限りでは「がまん」する事を覚えるのは大切であろう。問題は、具体的にどのような秩序やルールが求められているのか、それが子どもにとってどのような意味があるのか、ということであり、その検証抜きに、がまん強さを求めるのは大人の傲慢なのではなかろうか。 【4について】  登校拒否は「無気力」なのだろうか? 実は、みんなが普通に行っている(最近はイヤイヤ、無理に行っているという子どもが激増しているようだが)学校に、「行かない」という行為をすることは、ものすごいエネルギーのいることなのである。それが自覚的な選択として本人に意識されていないから、「頭が痛い、お腹が痛い」などという形で身体の不調として表現されるのであり、これは生理的な身体防御反応である。その子どもは、ものすごい力を振り絞って「学校に行かないことをしている」のだ、ということを理解してほしいと思う。 【5について】  そのような状態の子どもに対し、「学校に行かないのなら、その代わりに何かをやりなさい」と言うのは、無理な要求であると思う。まして、「どこそこへ行けば出席に日数にカウントされるから」などいう理由で、どこかに行かせようというのは、ますます子どもを追いつめるだけである。登校拒否していた子どもたちの多くが、その時を振り返り、異口同音に「あのときの時間は自分にとってとても大切な時間であった」と語っていることを大切に受けとめたいと思う。「繭ごもり」の時間は、人それぞれであり、じっくりと子どもの成長を待つ心のゆとりを、大人の側が持ちたいものである。  函館でもこの4月から、待望のフリースペース「自由高原」(この素敵な名前は、参加している子どもたち自身が付けたものである)がオープンし、私も微力ながら少しお手伝いして いるが、その「設立の趣旨」では、次のようにうたっている。  今、学校に行かないことを選択する子どもたちが増えています。ここは不登校を治 したり、学校へ戻すことだけを目標にするところではありません。子どもたちに多様 な居場所を保証していきたいと思います。子どもたちが、自由に、自分の意志で選べ る場の一つとして存在したいと思っています。 【6について】  学校との関わりについては、子どもにとって、まず家庭が「安心して自分が認められる居場所」となるよう親自身が心に決め、その考えと子どもの気持ち(何をして欲しいか、あるいは、「何をして欲しくないか」)について、的確に学校に伝えることが大切だと思う。子どもの人生に第一に責任を負うのは親であり、学校ではない。また、父親がいる場合は、父親も学校に関わっててほしいと思う。残念ながら日本は未だ男性優位の社会であり、学校も特に父親の話はそれなりの重みを持って受け止めてくれるように感じらる。それと、担任の先生だけではなく、校長先生にも直接会ってお話をし、ご理解いただくことも大切であるように思う。 学校や教育行政に望むこと  ささやかな体験ではあるが、以上のようなことを基に、私は今、学校や教育行政に対し、次のようなことを切に望んでいる。 1 「学校に行かない」選択肢の受容を   学校としての使命感や責任感はもちろん大切であるが、学校に行かないことも「ひとつの選択肢」としてあるのだ、という柔軟な発想を持ってほしいと思う。学校復帰がその子のためになる子もいれば、学校以外で生きることがその子のためになる子もいる。まずは、子どもが家庭で「安心して休める」環境づくりをサポートしていただき、進路や生活のあり方などについては、「指示」ではなく「情報提供」をお願いした。 ※「いじめ」問題との関連での補足  いじめに遭って自ら命を絶つ悲報が今も絶えず、その度に暗澹たる思いにかられる。きつい言い方になるが、「学校は命を削ってまで行くところではない」と思う。確かに、いじめは決して許されることではなく、いじめを防ぐ努力、いじめられた子どもたちのサポート、更にはいじめに走らざるをえなかった子どもたちへのケアは学校の責務であり、家庭をはじめ関係者がいじめに真正面から立ち向かう努力は大切なことである。  しかしまず第一に大切なのは、いじめをうけている子どもを守ることである。そのためにも、もっと気軽に学校を休める環境づくり(子ども・保護者・学校などの意識改革、欠席扱いにしないといった仕組みなど)が必要ではなかろうか。いじめは明らかな人権侵害であり、人権侵害が行われているような場所に行くことを拒否する権利が子どもにはあるし、行かせないことは子どもを守る親の義務でもあると思う。  いじめを受けて登校できなくなった場合は、「いじめを無くして登校できるようにすることが子どもの権利を守ることである」というのは正論かもしれないが、解決までは時間もかかるであろう。一般に、何か事故や危険があった場合、その原因が明らかにされ安全が確認されるまで、その施設や用具を使わない、あるいは現場に立ち入らないというのは、事故防止の鉄則である。同様に、「今後はいじめられない」ということを確信できない間は、堂々と学校を休む方が賢明であると思う。「君子、危うきに近寄らず」の格言も一理あるのではなかろうか。「学校を休んではいけない」という信仰が未だに強いために、結果的子どもを危険に晒すことになってしまうように思われてならない。 2 「学校の役割」の見直しを その一環として、「親の会」やフリースペースなどとも交流し、場合によってはこれらの 「社会資源」を積極的に活用することも検討してほしいと思う。それは決して学校の責任放棄ではないし、むしろ今求められいるのは、父母たちと率直に話し合いを行いながら、「学校として対応できること、できないこと」についてはっきりさせ、学校が過重な役割を背負い込むのを避けることではないだろうか。この背負い込みが、果てしない規則の制定などの管理強化につながり、子どもたちをさらに追いつめるという悪循環になっているように思われる。 3 「学校システム」自体の問い直しを 「不登校対策」という発想自体を転換してほしい。問われているのは「学校システム」であり、大人たちの「子ども観」、さらには大人社会そのものではないだろうか。このごろは特に、「最近の子どもは」云々という言い方が流布されているが、子ども社会の歪みは、大人社会の歪みの反映であることを、大人の側がまず自覚することから始めなくてはならないと思う。例えば「いじめ」としか言えないようなリストラを放置して、子どもに「いじめをやめよう」などと説教しても、いかにも説得力が弱いのではないだろうか。 4 進路選択の自己決定を  現在の進路指導は、「どこかの高校に入れる」ことを第一の目標としているように見受けられる。このままでは、高校段階での登校拒否や中退が、更に増え続けるであろう。もちろん、高校側でも魅力ある学校づくりの努力はされているのであろうが、回り道のようでも、子どもと親、学校が「何のために進学するのか」ということを率直に話し合い、進路は学校ではなく、自分たちの責任で決めるというように意識改革を進める必要があると思う。  そのためにも、まず親自身が、今回のバブル崩壊を奇禍として、「良い大学→良い就職→良い生活」という学歴信仰は、もはや幻想であることに、早く気がつくことが大切であろうし、学校もまた過度の進学競争を煽るような進路指導は控えていただきたいと願っている。 まとめ:登校拒否は「問題行動」か 【「問題行動」へと追い込む周囲の無理解】 そもそも登校拒否は「問題行動」なのであろうか? 私自身が体験し見聞きした、限られた事例からの意見ではあるが、家庭・学校・地域などその子どもの周囲が、登校拒否を「問題行動」であると考え、克服や治療・矯正などの対象としてその子に関わることこそ「問題行動」だと思う。  なぜならば、「克服」して学校に戻そうという行動は、子どもによって「拒否」された学校の現状や本質を問い直すことなく、「学校に行けない=社会に適応できない」弱さであると子どもを責めることに帰結する。また「治療・矯正」というのは、学校に行かないことをもっぱら子ども自身の問題とする考え方であり、子どもが提起している学校システムの問題点(教師にとっても子どもにとっても)を理解しようとしない姿勢につながっていく。  そして、子どもはこのような理不尽な抑圧に対し、それを自分自身へと転化させれば「ひきこもり」や「自傷行為」などの、外に向かえば「家庭内暴力」や「校内暴力」などの、本物の「問題行動」へと転嫁させていく。大人たちのこういった「問題行動」が子どもたちを「問題行動」へと追いつめているのではないだろうか。  しかし、問題行動などではなく、その子はともかく一休みしたい状態であり、場合によっては学校という場を通らずに成長することが、その子らしい生き方なのかもしれないくらいにおおらかに考えて、丸ごとその子を受け止めることから出発すれば問題行動には至らず、元気な生活を続けるケースが大半であるように見受けられる。 【プラス思考で不登校を受けとめる】  また、不登校については、精神病理的(学校恐怖症など)あるいは家族病理的(母子分離不安など)アプローチの時代が長く続き、このことが不登校への偏見を助長し、本人・家族をどれだけ苦しめてきたか図りしれない。  しかし、多くの不登校児やその家族は、様々な模索を続けながらそのような偏見を是正するための実践や活動に取り組んできた。もはやそのような見方では説明のつかない急増ぶりに、さすがの文部省も「不登校は誰にでも起こりうる」という見解を打ち出したが、基本的には未だ学校復帰が解決であり、そのための「対策」という発想の枠内にとどまっているように思われる。  不登校13万人(実数はもっと多いと思われるが)時代を迎え、むしろこのことを、受験や過度の競争からくる歪んだ社会を変えていくためのエネルギーにしていくという、前向きの発想が求められれいるのでははないだろうか。 【「不登校」と「登校拒否」について】  それと 、このレポートでは、「不登校」ではなく「登校拒否」という言葉を用いてきた。文部省は「不登校」という用語を用いるようであるが、これは「学校に行かない」という状態を示すもので、価値判断抜きのソフトな表現と言えよう。  しかし、学校に行こうとしても身体が拒否して行けない、学校を拒否せざるを得ないところに追い込まれている子どもたちが膨大に登場していること、更に、まだ少数派かもしれないが「学校システム自体が自分には合わない、意味がない」として「登校しない選択」をする子どもたちも増えている現状を考えると、「登校拒否」(=登校はいやだ)という言葉の方が、子どもたちの叫びがリアルに伝わってくるように思われる。  最後になるが、私は今、自分の生き方を問い直す契機を与えてくれたという意味で、そして、そのことを通じて多くの方々との素敵な出会いを与えてくれたという意味からも、「登校拒否」は娘たちから親への素敵なプレゼントであった、と考えている。 第3章 巧妙な国家統制を目論む「21世紀構想」 (1) 「衣の下から鎧」が見える報告書 1月、小渕首相の委嘱による「21世紀日本の構想」懇談会は、「日本のフロンティアは日本の中にある」と題する報告書を発表した。小渕前首相はこの報告を今後の政策の指針にすると言明、「教育改革」については、タカ派の論客・町村信孝氏を教育問題担当補佐官に任命、3月に首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」を発足させ、教育基本法の改定を視野に入れた検討に着手した。小渕退陣により、森首相となったが、同首相は4月14日の教育改革国民会議で「教育基本法の見直し」を言及しており、この流れは一層加速されるであろう。  これらの動きは、「日の丸・君が代」の強制に勝るとも劣らない大問題であると考えるが、日教組等の労働界のみならず、教育関係者の間からも、未だ大きな議論が巻き起こっているようには見受けられず、私は大きな危惧の念を持っている。 私は、懇談会の座長が河合隼雄氏であることから、この報告書を手にするまでは、一定程度リベラルな内容ではないかと想像していた。A4版150ページ余に及ぶ大作のサブタイトルは「自立と協治で築く新世紀」であり、従来の「官治主義」や「集団主義」のシステムを改革しなければ、日本は世界の潮流に取り残されること、そのためには「個の確立」を進め、「多様性」を力とする社会システムを形成することが必要であると強調する。そして、中央政府、地方政府、企業、NPO等の新たな民間の力、家庭や個人等々、社会の多様な構成員が適切な役割を担い協同する、「協治」の社会を築くことを主張する。  確かに、一見リベラルな言辞がちりばめられ、第1章から第4章までには首肯すべき見解も多々含まれており、単純な新保守主義的市場万能論や偏狭な国家主義とは一線を画しているように見受けられる。  ところが、教育改革をテーマとした第5章「日本人の未来」では、俄然トーンが変わる。もちろん、ここでもいたずらに愛国主義やナショナリズムを煽ることは慎重に避けているが、より巧妙に、しかし断固として教育に対する国家意志を貫く姿勢が示されている。以下、簡単に報告の概要を見ることにしよう。 (2)「統治行為」と「サービス」に教育を峻別 まず、基本的な時代認識として、「自由市場の世界化は歴史の趨勢」であり、市場経済は最も合理的なシステムであるが、富の再配分や資源・環境保全、人間の知的情操的可能性の評価などの機能は持たないので、「国家を始めとする様々な社会諸機関、非市場な制度と人間関係の仕組み」が必要である、とする。そして、「法に基づく強制力」によって社会諸機関を安定的に調整する役割は「国家にのみ期待される」ので、教育のあるべき姿を考える際も「市場と国家という文明の二大要因の緊張関係を前提としなければ」ならず、「教育の国家的な運営と、市場的な運営の両面が併用されなければならない」という。 そこで、「第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということ」であり、国民の統合や社会の安定を図るために合理的思考力のある国民を育成することは国家の責務なのだとする。それ故、「教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つ」のであり、義務教育というのは「国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない」と明言する。 これだけならば、単なる国家主義の焼き直しであるが、「同時に教育は国民にとっては自己実現のための方途であり…個人の多様な生き方を追求するための方法でもある」と続け、この側面は国家が提供する「さまざまなサービスの一つ」であり、「国家は決して強制権を持つべきではない」とする。 このように「教育の二面性」を強調しつつ、「統治行為としての教育とサービスとしての教育の境界」を明らかにし、「必要最小限度の共通認識を目指す義務教育については、国家はこれを本来の統治行為として自覚し、厳正かつ強力に」行うこと、サービスとしての教育は主要な力を市場の役割にゆだねることを主張する。 (3)教育は「国家の権利・子どもの義務」 さて、このような観点に立って日本の教育の現状を見るならば、「統治行為としての教育が目覚ましい成功」を見せたが故に、それがサービスとしての教育分野まで取り込んでしまい、「強制とサービスの境界がほとんど見失われた段階」にあることや、教育内容があまりにも均質化しすぎて、ポスト工業社会にふさわしい「先駆的人材が他の先進国に比べて育ちにくい」状況が生じていることに警鐘を鳴らす。 そして、統治行為とサービスとが混淆されているため、「一方で学校にあるべき権威と権能を与えず、サービスから市場的競争を排除」してしまい、「現在の学校においては教える側にも学ぶ側にも、進んでそれに従事するという動機と意欲が低下」し、「結果として授業内容についていけない子どもには過大な負担を与え、それを消化してより広く好奇心を満たしたい生徒には足踏みを強いる」として批判する。  さらに、その弊害として「子どもたちが教育を国民の義務として理解し、それに畏敬の念を持つことを忘れかけて」おり、「義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務であるという観念を復活しない限り、教師の自信も回復されず、昨今さまざまに憂慮される教室の混乱が起こるのも当然」であると言う。  このように、「子どもの権利としての教育=国家・社会の義務として子どもの教育権を保障する」という義務教育理念(実体はともあれ、今のところタテマエとしてはそうなっている)は、「統治行為としての義務教育=国家の権利・子どもの義務としての教育」へと、180度転換させられる。 (4)「義務教育3日制」にひそむ子どもの選別 その上でより具体的には、「現在の義務教育の教科内容を5分の3までに圧縮し、義務教育3日制」とし、「週7日のうちの半分以上、すなわち少年期の半分以上を、生徒と親の自由選択、自己責任に委ねて見よう」と提案する。マスコミが、教育の自由化や子どもの負担軽減、多様性の尊重といった、好意的文脈で報道したのはこの部分であると思われるが、そこには極めて重大な前提条件がある。  すなわち、「5分の3までに削減した教科内容は、国民が国民として身につけるべき最低限度の義務であるから、これを達成できない生徒には別途の援助を与える必要がある」とする。国家が課す「義務教育」をクリアできる子どもとできない子どもを選別した上で、「週3日」をクリアした子どもにはより高度の、あるいは専門的な分野の学習や体験に向かうことを保障し、この分野は「教育クーポン」の支給といった、利用する生徒一人ひとりの判断に委ねるシステム、教育への市場原理の導入を提言する。 最後に、「精選された義務教育の内容」については、「民族的、文化的に中立性の強いものが望ましい」としながらも、「法と制度を厳正に維持し、社会の秩序と安全を保障し、世界化する市場に適切な補正を加える国家の重要性は自明であり、生徒に対してそれを敬愛することを教えるのは義務教育の範囲の中にある」と付け加えることを忘れない。 この報告が目指す教育改革路線を一言でまとめるならば、「国家の枠組みが許容する範囲での個性や多様性の尊重」、というよりは「個性や多様性の尊重をうたわなければ通用しない時代になったが故に、国家の枠組みを締め直す路線」と言うことができるであろう。  それでは、このような義務教育の解体・再編を目指す動きに対し、私たちはどのように立ち向かい、どのような教育改革の対案を提起したらよいのであろうか。 第4章 「構想」に対抗する教育改革の方向性 (1)「義務教育を守れ」の運動は無力に 繰り返しになるが、「構想」の改革路線は単純な国家統制ではなく、「統制と自由化」の巧妙な組み合わせである。これに対し、「教育の反動化・国家統制に反対し、義務教育を守り充実させよう」という従来型の運動は、教育関係者の「既得権擁護」の運動とはなりえても、おそらくは広範な国民的広がりを持った運動とはなりえず、無力に終わるであろう。何故ならば、現行の教育システムが疲弊し、実情にあわなくなっていることは、「構想」が指摘するまでもなく、誰の目にも明らかになっているからである。  現に子どもを学校に通わせている多くの親は、わが子が「いじめ」や「学級崩壊」に巻き込まれはしないか、「進路」は大丈夫か、登校拒否にならず無事に卒業できるか等々、たくさんの不安や不満を抱えている。  学校の側も次々と発生する子どもたちの「問題行動」〜基本的には子どもたちの「意識的・無意識的反乱」であると認識しなければ、対処療法しか生まれないと思うが〜に疲労の色を濃くしている。それが良かったか悪かったかはともかく、「とりあえず学校に預けておけば安心」であり、先生たちも「安心してお任せください」と言うことができた牧歌的時代は、どうやら終わったようである。 (2)学校や親の不安につけこむ「構想」 このような混沌とした状況を、秩序強化の締め付けにより乗り切ろうという主張は、俗耳に響きやすい。曰く、「行きすぎた個人主義や権利の主張、自由の放任が子どもを甘やかし、問題行動を生み出している」と。「子どもたちが義務教育に対する畏敬の念を忘れかけているので、義務教育は納税と同じ若き国民の義務であるという観念を復活させないと教室の混乱が起こるのも当然」などという言い方は、自分の学校で学級崩壊が多発していたり、登校拒否や非行の子どもが続出するような事態になっている場合には、教職員の間に一定の共感を呼ぶのではなかろうか。また、そのような学校に自分の子どもが通っている家庭の場合、わが子がその「悪い影響」を受けないかと心配になり、「もう少しビシッと指導して欲しい」という気持ちになる親も多いのではなかろうか。 逆に、厳しすぎる校則や体罰などに典型される管理的・抑圧的な学校秩序や、過度な受験指導などの競争主義的教育に異論を持つ子どもや親は、「構想」が言うところの、あまりに均質的な日本の教育の弊害を実感しており、留保付きとは言え「個の確立」や「多様性の尊重」という主張の部分には共感を示すのではなかろうか。子どもの管理や進学指導に汲々とする学校のあり様に批判を持つ良心的な教職員もまた、この部分には賛意を示すであろう。 (3)「消費者主権」の教育クーポンに説得力  また、義務教育には膨大な税金が投入されており、子どもがその義務教育の「恩恵」にあずからないまま成長した私たちのような家族にとっても、一部「魅力的な」主張が散りばめられている。もちろん、結果としてではあれ行かないことを自ら選択した以上、そのリスクや費用についても自己責任で引き受けるつもりである。しかし、「構想」が言うように「国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務」であるとするならば、26歳と16歳のわが子はそれ相応の「認識能力」を身につけ、「構想」の条件を満たす社会の一員として成長している。それ故、義務教育に係る税金を使わずに「国家への義務」を果たしたのだから、納税者の立場からは、その分をわが家に還元して欲しいものである。  このことは、「構想」で提起している「教育クーポン」という発想とつながる。これは、ニーズを満たすための費用=税金を、サービスの「供給者」にではなく「消費者」の側にクーポンの形で給付するというシステムである。消費者は自らの選択により必要と考えるサービスをそのクーポンで購入し、供給者は支払われたクーポンで必要なサービス提供の費用をまかなう。そのサービスが消費者の期待に応えられない場合には、それ以降消費者はクーポンの支払を別のサービス供給者に変えるであろうから、今のサービス供給者は事業を閉じるか、消費者の期待に応えられるようなサービス提供に一層の努力をすることが必要となる。  現在の義務教育では、公立学校の場合は原則として学校を選択できないので、指定された学校に通わないということは、税金による義務教育の「恩恵」を放棄することになる。言い換えれば、学校に行く以外に税金の還元を受ける道が無いと言うことであり、「構想」の言う教育クーポンの仕組みに魅力を感じる登校拒否児の家族がいても不思議はないのである。 ※ この4月から東京都品川区では学区の一部自由化を導入する。この動きは今後広がって行くと思われるが、全国教研全体集会において、川上日教組委員長(当時)は、進学競争の激化が懸念されることや、地域と学校のつながりが薄れて、住民の共有財産という学校の役割が解体されることなどを理由に、反対を表明している。このような学校関係者の批判にも一理あるが、親の立場からすると、学校の情報公開が徹底され、多様で個性的な学校運営が真に可能となるならば、言い換えれば子どもたちや親にとって、選択に値するだけの多様性が生まれ、判断する材料がきちんと提示されるのであれば、意義のあることだと考える。 (4)チャータースクールなどを手がかりに いずれにしろ、「黙っていてもお客が来る」ことに安住して成長・発展した事業は、歴史的に唯のひとつも無い。義務教育がその最後の領域となっていることを学校自らが自覚し、それへの安住を断ち切る努力をしないかぎり、この「構想」には到底太刀打ちできないであろう。  そこで私は、教育改革の基本的方向を次のように提起したい。「構想」の表現を借りるならば、現在の義務教育を「5分の3の強制と5分の2の選択」に分けるのではなく、「5分の5の全てを選択にせよ」と! このことは別に目新しい主張ではなく、アメリカやヨーロッパで急速に広まっている「チャータースクール」や「ホームエデュケーション」がまさにこれにあたる。 昨年、アカシヤ会では、アメリカ・ミネソタ州のチャータースクールを視察してきた函館出身の民主党衆議院議員・金田誠一氏を招いて学習会を開催したが、このシステムから学ぶことは実にたくさんある。これは親や教師、地域住民などの団体や個人が、自らの創意による学校を作り、それを州や学区の教育委員会等が特別許可(チャーター)を与え、公的資金を投入して社会的に支えていく仕組みである。98年10月現在で、全米34州に1,285校が開校するに至っており、クリントン大統領は、2000年までに全米で3,000校に増やすことを提案しているとのことである。既存の画一的な公立学校とは異なる、いわば市民による「手づくりの公立学校」であるが、原則として全ての生徒に門戸が開放され、そこに通学するかどうかは生徒の選択に委ねられる。また、チャーター文書には教育プログラム、学校の使命、達成されるべき成果等が明記され、その条件が達成されなかった場合は、チャーター期間(一般に5年程度)は更新されず閉校となる。公的資金を受けて運営される公立学校である以上、アカウンタビリティー(結果責任、あるいは説明責任)が求められるという考えに基づくものであり、金田氏は、「チャータースクールに学ぶべきは、システム自体もさることながら、それを支える自立の精神と多様な価値観である」と語っていた。  ホームエデュケーションは、文字通り家庭での学びを社会的に認知しサポートしていくものである。スウェーデンでは6歳の時点で学校に行くかどうかを確認するとのことであり、デンマークでは親がホームエデュケーションを希望すれば、近くの学校がカリキュラム作りなどの援助者になるという(尾木直樹「学校を救済せよ」などより)。  これらは、「5分の2」だけに認められるといったシステムではなく、市民一人ひとりが自己責任により選択し、社会的に有用かつ必要な教育として丸ごと認知されるものであり、「構想」のような、留保付きのケチな「多様な選択」とは「似て非なるもの」である。 (5)対抗軸はオルタナティブな教育の創造 もちろんこのような制度は、学校法人開設に係る徹底した「規制緩和」を含む、学校教育法などの抜本的改正を抜きに実現は不可能であり、すぐに日本に導入される可能性は極めて小さいであろう。  しかし、すでに日本においても、全国各地で様々な、そして膨大な数のフリースペースやフリースクールが運営されている。その多くは、登校拒否の子どもたちや親、支援者が手探りで作っていったものであり、規模も小さく、既存の学校制度がカバーしている学習領域に比べれば、極めて狭い範囲のものであろう。しかし、それを必要とする人々が自らの智恵と労力により創造したものばかりであり、「現在の学校においては教える側にも学ぶ側にも、進んでそれに従事するという動機と意欲が低下」するような弊害は免れている。  何よりも、学校とは「お上」が作ってくれるもの(私立学校といえど学校法人の認可を必要とする)という観念を打ち破る具体的な実践が、このような形で広がっていることは、明治政府が近代学校制度を発足させて以来、初めての出来事であろう。そして、日本でも開花しつつあるNPOの仕組みを活用するならば、このような取り組みはさらに発展する可能性が開けるであろう。制度改正に先行して、主体の側の条件は徐々にではあれ形成されつつある。 「構想」に対抗しうる教育改革は、このようなオルタナティブな教育のシステムを創造する運動とそれを担う「市民力」の形成・発展にかかっているのではなかろうか。教育労働運動もまた、従来型の既得権擁護の運動ではなく、これらの流れと連携することなしに活路を見いだすことはできないと思われる。 第5章 一歩前へ〜学校や親に求められているもの (1)全ての学校現場で「休む権利の保障」を  しかし、このような基本的方向性の確認だけでは、教育を巡る日々の具体的問題に応えることにはならない。また、抜本的な制度改革へのプロセスにおいて、現行の制度の枠内で可能な改革や、日常の教育実践のなかで解決を図るべき課題も多数あると思われる。  私は、次女が小学4年生から登校拒否して以来、幸か不幸か学校との具体的付き合いがなかったために、学校運営に係わる具体的提案をできる知識も経験もない。そこで、全国教研の分科会討論を手がかりに、幾つか問題提起をしてみたい。 まず第一に、少なくとも日教組組合員の皆さんには、全国教研の「いじめ・不登校」分科会に臨む日教組の基本的姿勢をきちんと受けとめ、共有していただきたいということである。日教組は第46次岩手教研において「学校を休む権利」を確認し、その後の論議と実践を通じて、今次分科会の要綱においては、「いじめ・自死・不登校・学級崩壊…子どもの学校、社会に対する命がけの異議申し立てを受けとめられないことに危機感を持ち、学校を変える当事者て何をはじめていけばいいのか」を討論しようと訴えている。 激増する登校拒否について、さすがに文部省も「不登校は誰にでも起こりうることであり、無理な登校刺激はしない」という認識に変わったが、依然として不登校はその個人・家庭の問題とされ、とりあえずの対処方針が示されたにとどまる。そして、不登校「対策」として「適応指導教室」などが設置されるというように、基本的には「学校に適応すること=学校復帰」が「解決」とされているように思われる。(それでも親の立場からすれば、無理な登校刺激をしないとされただけでも、どれだけ肩の荷が軽くなったことか!)  これに対し、日教組の基本的スタンスは、上記のとおり一歩前に進んでおり、子どもたちの学校に対する異議申し立てと受けとめて「休む権利」を保障し、教育改革への契機としていこうというものである。しかし、このことが学校現場にどれだけ共有されているだろうか。 (2)「休む権利の保障」は学校の今を問い直す  今回の分科会報告書の中にも、「無理な登校刺激はせず、本人や家族の意向を尊重し段階的に実施する」という「配慮」をしつつも、登校再会を「成功事例」というスタンスで報告するレポートがかなり見受けられた。  討論においても、「登校刺激は良くない」とか「休む権利」ということは頭で理解しても、現実に登校拒否の子が出現すれば、「教師としての力や学級経営の未熟さからではないか」と悩んだり、「戻せないのは教師としての力不足という目で周りから見られる」「管理職から早く学校に戻すように指導される」などという発言が相次いだ。また、「子どもが人間関係を形成し成長する場としてやはり学校は大切」という趣旨の発言もあった。やはり、学校の側から「休んでもいいよ」と言うのは、まだ相当に勇気のいることのようである。 ただし、この勇気には幾つかの留保が必要である。分科会の議論においても、多くの教職員から「学校に来ても来なくても良いという考えが一人歩きをすれば、学校の責任放棄につながる」とか「休んでも良いとして、子どもの学習権の保障について学校としての責任を考えるべきではないか」といった発言がなされた。まさにその通りであり、「休みたければ勝手に休めばいい」というのでは、単なる無責任に過ぎない。  「休む権利の保障」とは、「休むことがその子どもの利益にかなうが故に権利として保障しよう」ということであり、このことは裏返せば、「どうしたら子どもに来てもらえる学校になれるのか」ということが問われることなのだ、という受け止めが必要となる。そうでなければ、文部省の対処療法と同じレベルにとどまってしまい、教育改革への契機などになりようがないであろう。 (3)学校をもっと「身軽」にする取り組みを また、学校という場を通らなければ子どもは一人前に成長できないと言う思いこみや、「学歴」へのこだわりが現実の社会には根強くあるために、子どもが学校に行かずに、家庭や学校以外の場で成長するという選択が、学校にも親にもなかなか受けいれられない。分科会の中で登校拒否を体験したの若者が、「なぜ今の学校という枠の中でしか解決を考えられないのか」と発言していたが、核心をついていると思う。  しかし、「学校を通らなくても子どもは成長する」ことを子どもと家族、学校が認め合い、「学校に行くのも選択肢のひとつ」というように考えることができれば、学校に背負わされた過重な役割を見直し、整理していくことも可能となるであろう。このことは、現在の管理的・抑圧的な学校システムを、より住み心地の良いものに変えていく道にもつながる。 学校の側からも、登校拒否の問題などをひとつの手がかりとして、学校が担うべき役割、家庭が責任を持つべき役割、地域がサポートすべき役割などについて、率直に、ホンネで語ってほしいのである。例えば、放課後や夏・冬休みの規則など果たして学校が決めるべきことなのか、生活指導や部活などは本当に必要なことなのか、100%合格を「保障」しようとする進路指導は必要なのか等々について、議論すべき時期に来ているのではなかろうか。  これらが無くなれば教職員の負担は随分と軽減されるであろうから、労働条件を改善するという、労働組合にとっても本来の課題と合致する。おそらく学校現場からは、「一般論としてそのように言えても、父母や地域からの要求があるのでそうはいかない」という声が聞こえて来そうである。  しかしこのことは、単に労働組合のエゴなのではなく、現在の学校システムのあり方を根本から問うことなのであり、それ故自信を持ってこのような主張を展開するためには、自らの教育理念や学校のあり方についての見識を持つことが要求される。「現場の苦労も知らないで」と反発されることを百も承知で言わせていただくならば、「忙しい、忙しい」と言いながら現状を抱え込み続けることよりも、現状を変えようとする努力の方がはるか厳しく、しかも今求められていることなのではなかろうか。 (4)「納税者の反乱」をしっかり受けとめよう 私はまた、教育改革については、「情報公開・説明責任・政策評価」という、行政改革とも共通するアプローチが必要であると考えている。というのは、私は北海道庁の職員であり、地方分権と住民参加の行政を本気になって推進するためには、全ての地方自治体は上記の3点セットをクリアすることが課題ではないか、という問題意識を持つからである。  1995年、道庁を根底から揺るがす「不正経理問題」が発覚し、これを契機に不正を追及する動きは全国の自治体へと波及していった。これは、役所の事務処理の誤りを正すといったレベルを超えて、自治体の構造や仕事のあり方、職員の意識そのものを問い直すこととなり、戦後の地方自治制度が発足して以来、自治体に対する最大規模の「納税者」の反乱であったと考える。納税者として、自分たちの税金が適正に使われているのかどうかを、市民が主体となって全国的規模で同時多発的に追求したというのは、おそらく初めてのことであろう。 当初、私は事の重大さ、深刻さを十分に自覚しておらず、「ほとぼりが冷めるのを待つ」程度の意識であったが、そのような対応が許される事態ではないことがだんだんと明らかになってきた。私は末端の一職員に過ぎないが、何かをしなければと考え、97年に市民や市町村職員も含めた道庁内外の有志とともに、「未来セミナー」という自主研究グループを立ち上げ、「分権時代の道庁のあり方を考える」をテーマに、公開フォーラムや勉強会を開催してきた。本論から外れるのでこれ以上はふれないが、私がこのことを通じて学んだ最大の教訓は「道庁の常識、世間の非常識」ということであり、道庁の改革には「情報公開・説明責任・政策評価」のシステムが不可欠である、ということであった。  しかし、今度は農業土木工事を巡る談合・割付疑惑で公正取引委員会の摘発を受けたのみならず、つい先日、建設部長が業者選定を巡る贈収賄容疑で逮捕されるという衝撃的な事件が続き、公共事業をめぐる腐敗構造が表面化している。これまでの改革プログラムの意義が帳消しになりそうな事態に、私は道職員の一人として消え入りたい気持ちであり、虚しさすら感じているが、改革路線の歩みを止めるわけにはいかない。前述の「3点セット」だけでは役所の病巣を根治できないことも明らかになっているが、それすらやりきれないようでは話にならない。巨大組織の隅々にまで改革方針が徹底することの難しさを自覚しつつ、この改革の方向性を愚直にまで追求することが、今こそ必要なのだと考えている。 (5)学校も「情報公開・説明責任・政策評価」を  私は、学校もまた税金により運営されている「公の機関」である以上、上記の3点セットを実施することは納税者に対する責務であると考える。果たして、「学校の常識、世間の非常識」という事態はないのか、自ら検証することが求められているのではなかろうか。  学校で行われていること、行おうとしていることについて「情報公開」し、その目的・根拠や成果、反省点や改善策などについて、子どもたちや保護者、さらには地域の人々に「説明責任」を負うということについては、誰しも異論はないと思う。  しかし、このような問題意識や取り組みが、学校現場にどの程度浸透しているのかについては、かなり疑問を持たざるをえない。理不尽な校則や繰り返される体罰、いじめに対する不適切な対応などは、このシステムがきちんと機能すれば相当に改善されるであろうし、「内申書」をめぐる疑心暗鬼や様々なトラブルも大幅に減少するのではなかろうか。  ただし、「政策評価」は、何をもってその学校の成果とするかについて、価値判断が分かれるであろうから、慎重な取り扱いが必要と思われる。「偏差値の高い学校への進学率」や「各種大会におけるクラブの優勝回数」を評価基準にしたい人も数多くいるだろし、「生活体験の重視」や「ゆとりのある学校生活」など、数値化しにくいことに価値を求める人もいるであろう。一般行政における政策評価の手法をそのまま当てはめることには無理があろうし、これが教職員に対する勤務評定と結びつけられるならば、非常に危険なものとなる。しかし、だからと言って、この課題を回避して良いということにはならない。具体案を記すほどの能力はないが、少なくとも何らかの形で、子どもたちが授業内容や学校の事業について評価し、意見を述べるようなシステムは必要と考える。 (6)最も大切なのは親の意識改革 最後に、これまで学校に対する厳しい意見を述べてきたが、登校拒否への対応について言うならば、私は最も大切なのは親自身の意識改革ではないかと考えている。何故ならば、学校との関係はその子の人生にとってほんの一部にしか過ぎないが、親子は死ぬまで親子だからである。学校にわが子の人生について保障を求めることなどできない相談であり、それは親自身の責任なのである。親として一番大切なことは、その子が自分らしく生きるために何を求めているかをしっかりと受けとめることであり、親の価値観を押しつけたり、子どもに代わって親が判断したりすることではない。学校に行く、行かない程度のことで、大切な親子関係を破壊するような過ちを私は二度と犯すまいと誓ったが、その思いは今でも変わらない。   もし、親自身が学歴や学校に対する強いこだわりを持ち、過度な競争主義的教育システムの中にわが子を追い立てているとするならば、「子どもの命がけの異議申し立て」の対象には、学校や社会だけではなく、「家庭」も入っているかもしれないのである。このことを棚に上げて、学校や社会を批判するだけでは何も変わらない。  今一度、親として、何のためにわが子に学校に行ってほしいのか、あるいは「できるだけ良い高校・良い大学」への進学を望むのはなぜなのか、ちょっと立ち止まって考えて見てはどうであろうか。このことは、登校拒否児の家族に限らず、国民全体にとっても、これからの教育のあり方を考える上で大切なテーマではなかろうか。  21世紀初頭の日本は、国や社会のあり方を巡って様々な潮流がぶつかりあうであろう。大きくは、新保守主義的な社会再編を目指す潮流と、市民社会の成熟を目指す潮流との対抗になると思われるが、「教育改革」も大きな焦点のひとつとなるであろう。新保守主義の潮流が目指すのは明らかに教育基本法の改悪であり、その延長上に憲法改悪が見えて来る。しかし、繰り返しになるが「教育基本法を守れ」ではこの潮流に対抗することはできない。市民社会の成熟を目指す潮流にとって、既存の学校システムを改革するための具体的案を示すのはもちろんのこと、オルタナティブな教育の創造を推進することを抜きにして展望は開けないと、私は考える。