野鍛冶一代   回想  1995年の暮れも押しつまったある日、古いアルバムの中からセピア色をした1枚の写真を眺めていました。  それは、半世紀程前の昭和28年2月長野県の野沢温泉スキー場で行われた中日スキー学校で撮った記念写真で、スキーを始めて2年ぐらいの若い自分と、教師の片桐匡先生に、同期生の7人が写っています。この中に今までしてきた仕事のキーポイントが私には見え隠れて居ました。(左から二人目が私ゼッケン一が片桐先生) ピッケル  セピア色の写真の中には写っていないが、私がスキーを始めるにあたって、我流では駄目だと思い基礎を習うために中日スキー学校に入校した昭和26年1月、見知らぬ内藤則之氏と偶然同じ部屋で自己紹介をしている内に氏も町内に住むことや、同じクラスで講習を受けている事が判りました。  昭和28年の初夏、その内藤氏が独立して開業間もない私の工場をふらりと訪ねてきました。その時、彼は手にしていた鶴嘴の様な物を見せて「これは冬山で使うピッケルと言う物だが、一本作って見てくれないか」と言われました。(氏は登山の経験は豊富ですが、スキーは初心者でスキー学校に入り、初めて私と出会ったのです)その時これを見本にして3本ほど作り、そのうちの1本に1928と刻印を入れ内藤氏に渡しましたのが、ピッケルとの初めての出会いでした。    出会いから7年後、この間に野鍛冶の仕事も順調に伸びて、忘れるともなく忘れていたピッケルと言う文字が、(山と渓谷)という雑誌から目に入って来ました。それは鎌倉市在住の黒田圭助氏が寄せた随筆で(ピッケルのカルテ)というものでした。文中には、古今東西に渡る名作のデザインから製作方法までが詳細に述べてあり、しかも末尾に「古来、日本には日本刀を作るという世界に誇れる技術があるので、この技術を生かしたピッケルを現在の刀匠や鍛冶が研究をして出来ないだろうか」と、結んでありました。それは鍛冶をしている私にとっては激を投げ掛けられた様な気持ちで、氏の文に何とも表現しようも無い強い衝激を受けました。  それから間もなくして、誌名の記憶が定かで無いが日本山岳会のH氏が寄せた随筆の中で、世界的なピッケル作者、仙台の山内東一郎氏との対話が載っていました。その中でピッケル作りは“ばか”にならなければ出来ない、それに後継者がない事と、 「後継者が無くでも心配ない、この仕事は俺一代で終わっても、その内に何処かでピッケルを作ってやろうという者がでてくるだろうから」というものでした。この2つの文章は、私の胸の中で何かを動かしたようでした。    7年前、始めて作ったピッケルの感触が蘇って来て、自分でも本格的な物が出来るのではないかと思いました。考えてみると、この登山という分野は他のスポーツに比べて人口も少ないが、ピッケルを作るメーカーも世界中数えても10社ぐらいしか有りません。中でも手作りのピッケルに至っては、2〜3社(個人を含めて)も無いくらいですから、ピッケルを作るという道は狭いが世界に通じていると思いましたし、山内東一郎氏が世界一なら自分も一生懸命やれば成れるのでは無いかと若気の至りか大胆な事を考えはじめたのです。  ちょうど、この頃に戦後日本で初めて作られた農耕用耕運機(ティラー)がH技研工業から売り出されました。これは牛や馬を動力にして来た従来の農業が、エンジンを動力にした初めてのものでした。この機械が徐々に普及していくのを見て、今までの一生涯食いはぐれのない職業という考えを、10年足らずの内に変えざるを得ませんでした。この先10年20年の内に農家は必ず機械化されて、今までの様に手で使う農具は使わなくだろうと危機感を抱き、何かいい仕事がないかと考えていた時期でした。    昭和35年、まずヘッドより試作を開始しましたが、鋼材は最初から「ピッケルのカルテ」の中に述べてあるJIS規格SNCM9種(ニッケル.クローム.モリブテン鋼)を使いました。この鋼は私が日常農具などに使う金属に比べると硬くしかも粘り強い鋼材で本に書いてある様な特殊鋼に普通鋼を鍛接するという、日本刀のような構造には出来ませんでした。日本刀は鍛錬した後、真っ直ぐに延ばすので鍛接した所が剥がれてしまう事が有りませんが、ピッケルは切ったり曲げたりするために剥がれてしまうためです。独学、独習だから苦労の連続でしたが、なんとか鍛造の工程が出来上がるまでに1年以上掛かりました。これは従来の鍛冶は横座と先手との2人でする仕事だったのを、独りで出来るように工夫したためでした。しかし鍛造が出来るようになりましたが、どうしてもピッケルとしての形がまとまりません。試作品が山のようになりましたが思う様に出来ません。そこで前述の(ピッケルのカルテ)著者、鎌倉市の黒田圭介氏に手紙を書き助言を求めた所、早速豊田市まで来られました。次の日は黒田氏が永年暖められたデザインのピッケルを造ることになり、黒田氏の目の前で鍛造を行って前夜各部分にわたり検討されたピッケルのプロト・タイプが出来上がりました。  これに並行して当時市販されていた内外の製品を2〜3種類、黒田氏に提供してもらい、これを分解し内部構造の欠点を調べ上げました。この作業は重箱の隅をつつくようなものでしたが、今までにないピッケルを作るためには欠かせない事で、出来上がったものを外部から見たのでは分からない色々な作業上や構造上の情報を知る事が出来ました。  しかし、出来上がったピッケルの硬度や機械的性質、それに金属の内部構造などは調べようもなく困っていましたが、妙な事から解決しました。   機械作り  昭和37年初夏、ピッケルの試作をしながら本職の火造り仕事で当時トヨタ自動車工業KKの下請け会社である日本発条KKが、豊田市に進出して名古屋工場として乗用車用シートの生産しておりましたが、シート組み立てラインでは手工具を使い手作業による組み立てをしており、この生産ラインで使う工具を私が作っておりました。  37年の秋にトヨタ自動車工業KKが新開発のカローラを出すに当たって、シートの構造を根本から変えました。これまでのカー・シートはベッドと同じ構造で、コイル状のスプリング連結してその上にフエルトを被せ、さらに表布を張って居りましたのを、水平蛇行型のスプリングを、ウレタンホームに鋳込むと言う構造になり、このためスプリング同士をつなぐ(金具クリップ)まで、手作業用の工具では使えない物になりました。これは使用するアメリカ製のエアー工具にしか使えないパスロード・クリップと言うもので、この機械を使うためにはクリップを全量輸入しなけばならないと言う事で、会社では社内でこの機械を作ろうと長野県にある高野工場で試作をしていましたが、うまく行かず困って居たそうです。丁度その頃、私が納品のため補修部を訪れた所その社内試作品とアメリカ製の機械が置いて有り補修部員がいろいろと検討していました。私も機械が好きでしたので、その機械を見て色々自分の考えを言っていましたら居合わせた工場長から「それなら、この機械の試作をして見てくれないか」と言われました。家に帰ってから工作機械もない鍛冶場で、アメリカ製とは違うタイプの作動をする装置を考えて、3週間ぐらい掛りましたが手動で動く機械を1台作り上げて工場長に見せました処、今度は「ラインで使える実用的なものを造ってくれないか、必要なものは何でも提供するから」と言われました。機械加工は家では出来ないので補修部の機械を使わせて貰い、夏の暑い盛りの2ヶ月間を、この機械の考案と製作に没頭しました。  色々と試行錯誤をしましたが、8月の終り頃になって全自動で動く機械は完成しました。エアー作動ではパスロード・クリップが完全に締まらず後から増し締めをしなければならなくなり、やむを得ず足動式にしたところクリップは完全に締まり会社側の希望どおりの物が出来上がりました。そしてシート組み立てラインに取り付けられ順調に作動して、秋の新型カローラの発売に間に合いました。   この時機械の価格設定について、私が考案料を価格に上乗せして請求したところ、考案料はカットされてしまいましたが、あとになって工場長が慰労のため鮨屋に招待してくれました。その席上「二村君、これからも細く長く付き合おうじゃあないか」と巧く丸められてしまいました。工場長と色々と話しをしている内に私がピッケルを作っており「材質とか、熱処理、鍛造、機械的性質など、分析にに関する事で非常に困っております」と話したところ「私の同期の人が大同製鋼の中央研究所所長をしているから紹介状を書きましょう」と一筆、書いてくれました。この紹介状が元で中央研究所に出入りが許可され、今まで私に不足していた特殊鋼の知識や内外のピッケルの分析(1)(2)など鉄に関する、すべての問題が一挙に解決しました。  あの時私が考案料にこだわっていたら、こんなに話は巧く行かなかっただろうと思い、やはり工場長の言う古い諺どおり“細く長く付き合う”に限るとしみじみ思いました。   次はシャフトです。これが大問題で前述の黒田氏は竹の合板を使ったらと書いてありましたが、竹自体が熱帯産で冬山の極低温には使えないと思い、当時、スキー用材として輸入されていたアメリカンヒッコリーを手に入れようとしました。名古屋市内のTスポーツ用品店やS山荘のオーナーに尋ねても、スキーメーカーの住所は教えてくれませんでした。それではと一計を案じその日の内に夜行列車に乗って長野県野沢温泉村へ、例のセピア色の写真を携えて片桐匡先生を訪ねたのです。先生にはスキー学校でコ−チをして貰ったことが有るだけの縁ですが、無理を承知でお願いした所、快く引き受けて頂き長野県と新潟県内にある数社のスキーメーカーに宛てた紹介状を書いて頂きました。その日の内にいただいた照会状を持って回り、3社目に飯山市の(株)S・スキーさんから、アメリカンヒッコリーを手にいれる事ができました。ヒッコリー材は数年間分けてもらいましたが、手持ち量が安定しないので何とか20年から30年間分のストックが出来ないかと考えて、黒田氏に相談したところ「友人が総合運動具メーカー・ミズノで部長をして居るから話してみよう」と、大阪本社まで出向いてくれました。当時は、スキーの板が大改革を遂げて、グラスファイバーやプラスチックになり、ヒッコリーを使わなくなっていて、メーカーが在庫を抱えて困っていたようでしたので、話は簡単にまとまり、岐阜県にあるミズノ養老工場の貯木場から原木を買い入れる事になりました。  当時は運輸業者も余り無くトラックを友人から借りて自分で材木の輸送に当たりましたが、2トン車に12石もの木材を積んだため、トラックの前輪が浮き上がり、名神高速道路も50キロ〜60キロぐらいしか走れず、高速道路を低速で走行するという恐い思いをしました。  原木のため近くの製材所で板に加工してもらいましたが、たった12石を機械鋸でひくのに2日間と鋸歯を10枚以上壊してしまい係りの人は普通の材なら1〜2枚で済むのにとこぼしていました。その後、鍛冶場に運んで積み上げました。  最初の頃はシャフトを柄木屋(昔の農具は皆樫の木の柄を付けておりましたし、特に平鍬という種類の柄は高度な技術を要し、各町や村には優秀な技術を持った柄木屋が有りました)にたのんで削ってもらいましたが、こちらの希望どおりの形に、なかなか作ってもらえず、2〜3年後には自分で削るようになり、現在に至っています。この時仕入れた材は今でもピッケルのシャフトに使っておりますが、材質は30年以上たった今でも、まったく変わりません。   ピッケルに木炭   黒田氏は燃料に付いても是非、木炭を使うようにといわれましたが、しかし、鍛冶で使う木炭、特に松炭は何処にも販売しておらず、ついに自分で炭を焼く事を決心しました。近郊を回って古い窯を探しましたら15キロぐらい離れたところに永く使ってない窯を見つけ、持ち主の承諾を得て、ここで炭を焼くことにしました。無論、私には炭を焼いた経験は有りません。  炭の材料は包装材に使う木毛を作った残材を2トン車に2杯、無償で貰いました。一人で約半日掛かって窯に材料の木を詰め火付けましたが、この時点で私の炭を焼くための知識は、わずかに焼きあがる時の煙突からでる煙が透き通るという事だけでした。火を焚き続けて三日三晩、白い煙が紫色になったところで、待ちきれずに火を止めました。それから3日たってから良く窯が冷えたのを見計らって開いて見ると上部だけ焼けて下はまだ木でした。原因を良く考えて見るとこれは材料が細くて真っ直ぐなため火の通りが悪いからだと推定し二窯目は、これに懲りて材料の立てかたを変え風通しを良くして詰めました。火を付けて居りますと一人の老人がやってきて話し掛けてきました。この人が窯の本当の持ち主で、親切に色々炭焼きの事に付いて教えてくれましたので、二窯目は、このため非常に良く焼けて大成功でした。この時の炭は約50俵ぐらい出来たので当分の間、炭には困りませんでした。    既に試作には2年を費やしていましたが、この頃は、まだ近郊で採掘されていた亜炭(愛知県北部から岐阜県にかけて、まだ石炭になり切れない炭化した木)採掘用の鶴嘴や、農具の修理がかなり有りましたので、私がピッケルの試作をしているのを見て、地元の百姓さんやお客さんまでが「近頃、鍛冶屋は狂ってきた。粘土で作った変なオモチャや、おかしな鶴嘴ばかり(粘土でピッケルの造形を作っていました)作っておるぞ」と評判になっておりました。家の中でも家内に「子供も出来た事だし、もっと仕事に精を出して貰わないと食っていけないから困る」と、言われどおしでした。   試作最終段階   その後の1年間は実地テストです。当時、気象庁に勤めて居られ作家でもあった故新田次郎氏に、気象庁のフイールドである富士山山頂測候所で1年間、テストをてもらう様に黒田氏から交渉して頂きましたが、新田氏に国費でテストをするようなものだと言われ実現しませんでした。そこで黒田氏の友人に川崎市で運動具店を経営しておられたU氏にお願いして、同氏が主催して居られた登山用具研究会に引き受けて戴き、実地で会員に使用してもらった感想をレポートにして送って貰う方式で行いましたが、半年間は散々なレポートが届きました。  中でもあるレポートには「バランスが悪いので使いにくい」と書いてあり、これには参りました。形は黒田氏のデザインを頂き私なりに現在の登山技術に合う様に作ったが、目に見えないバランスとは一体何だろう。黒田氏に聞いても「使う人がピッケルを振り下ろし、ぴたりと止めた時に、バランスの良し悪しが分かる」と言うだけでした。この時を境に大袈裟な言い方をすれば眼に見えないバランスとの戦いが始まりました。  何か方法がある筈だと思うがよく解らないので、当時、世界で最高のピッケルといわれた、シャルレ・モンブランガイドを黒田氏から提供して頂き、これを大同製鋼中央研究所に持ち込み解体分析して、その眼に見えないバランスを探す事にしました。その結果、ヘッド部分とシャフトにハーネスとスピッツエを加えた部分の重量比である事が朧げ乍ら分かってきました。いわゆる、美人の条件である八頭身の様な比率がピッケルにも黄金率としてあったのです。  又、シャフトに使用しているヒッコリーが重いためにバランスが取り難い事も分かり、それ以後改良して作ったピッケルは、全部といって良いほどバランスは良くなりました。   次は、販売ルートの問題であります。これも黒田氏にお願いして東京の(株)秀山荘を通じて発売しようとしました所が「生産量から見ても、うちの店で売る程のもではない、川崎のUさんのところでテストも行っておる事だから、其処から売り出したら」といわれましたので、これで発売は川崎市のU店と決まりました。 生い立ち  ところで、私こと二村善市は昭和6年3月31日、愛知県西加茂郡小原村大字大草403番地の2に“指し物大工”の次男として生まれました。    生まれてすぐに親の都合?で夜逃げ同然豊田市の前身、挙母町西町(ころもちょう・にしまち)に引越ししました。兄弟は7人でしたが上の姉が3歳のときに“はやて”で死に以後6人兄弟で成長しました。七つ上がりの私は幼稚園に通い、小学校へと進んでいきました。これは後になって親戚の人から聞いた話ですが、実際には4月2日に生まれたのに早生まれで届を出したそうです。妻も同じように3月31日生まれを4月2日に届けたようで、昭和の初期にはこのような事が日常茶飯事で行われたようです。この為、学校では授業について行けず世間の人の評価は“暗がりから引き出した牛”でした。これは職人の子として一日でも早く小学校から小学校高等科と進み、学校を卒業すると小僧に行けるようにというありがたーい親の配慮でしたが、私にとっては迷惑千万でした。しかし5年生のときからこの道が曲がり始めました。第2次大戦の影響で小学生まで学徒動員されたのでありました。6年生のときに軍の補給厰で働かされ小学校高等科に入るとトヨタ自動車に配属になり第4機械鍛造という所で、今まで木の中で暮らしてきた私が、鉄と初めて出会ったのでした。    これは、まさにカルチャーショックで、月とスッポン、水と油、鉄と木?の類であります。其の当時は今と違って工場内で使う旋盤用切削工具(バイト)を自社で製造しており、第4機械鍛造の一部門として社内で使うバイトを一手で製造しておる火造り鍛冶屋でした。卒業までここでトンテンカンと鍛冶屋の先手をして過ごしました。卒業と同時に愛知航空機に就職して、当時近くに有りました会社の飛行場で海軍戦闘機(彗星・社内通称Y4)の整備に当たって居りました。5月になり、かねて志願していた陸軍少年飛行兵学校に入校が決まり、6月に退職、8月2日に大津市の陸軍少年飛行兵学校に入りましたが、8月15日の終戦と、目まぐるしく運命の道が変わりました。   大津陸軍少年飛行兵学校  ここが私の少年期を締めくくる場所となりました。今の人たちには判らないでしょうが、当時は学校教育の場で、戦争を美化して若い人々を戦場に駆り立てておりました。また、大多数の国民も善悪にかかわらず戦争に関わっており、私も憧れの的であった職業軍人として大空へ羽ばたこうと挑戦を始めたのでした。  まずは志願兵の試験に合格しなければなりません。頭はあまり良くありませんでしたが、体には恵まれてクラスの中でも上から三番目でしたので、これが幸いしたのか見事?名古屋市での1次試験に合格、2次試験は東京の京王多摩川にあった京王閣で行われたので、官費で生まれて始めての上京を果たし、折からの空襲の中、命懸けで試験に臨みました。この試験は適性検査が主に2泊2日で行われ無事終了しました。   この試験に前後して海軍の乙種予科錬にも挑戦し、挙母町で行われた1次試験に合格して2次が広島県の大竹海兵団と、東に西にと飛び回りましたが、大竹からの帰り山陽本線に乗車中艦載機の機銃掃射を受け命からがら山の中へ逃げ込んで事も有りました。  結局、陸軍への採用が決まり最初3月入校の予定が戦局の悪化が原因で大幅に遅れ8月2日となり14才と5ヶ月で入校する事に成りました。忘れもしません暑い盛りの7月30日歓呼の声に送られて郷里を後にしたのでした。鎮守の森で催された出生兵士を送る会に、国民兵(徴兵制度の他に第一国民兵と第二国民兵が有って今で言う中高年(35才から50才くらい)の人まで招集されていた)3人の後に私も並んで送られましたが、何しろ今の中学3年生の子供が戦争に行くのですから大変でした。後ろの方で「あの子、本当に出征するの」という声がしたのを今でもよく覚えております。  運命の8月15日までたったの半月でした。学校では20期操縦科に配属されましたが、既に教習はなく防空壕掘りばかりで、一人前に“びんた”も食らい兵士の扱いを受けました。終戦処理に一週間掛かり8月22日分配された物品を“待てるだけ持って”郷里に帰りました。  この終戦処理にあたって東京・大津・大分に在った各学校では全ての書類を焼却しました。そのため、私たちの資料はまったく残っておらず、たった20日間の在校期間では横のつながりを持つ事も出来ません。20期生たちの戦友会は随分後になってから組織されました。東航出身のS氏が会長を努めて居られますが、何しろ名簿の無い会ですので大変な作業の末1977年11月23日靖国神社にて設立され、第1回の全国大会を思い出の大津校跡にて開催、裏山の三井寺境内にある若鷲の碑に参拝、先の大戦で特攻隊員として各地で戦死された先輩の冥福を祈りました。以後、毎年開催地を全国に求めて挙行され各地にある戦没者の慰霊を行って居ます。  1997年は20周年大会として鹿児島県の知覧が選ばれました。知覧で開催されるのは3回目になりますが、大戦中この地に在った飛行場が特攻基地として重要な位置に在り、多くの先輩がここから発進して雲行く果てに散華されたのでした。現在跡地には特攻観音と資料館が在り、先輩たちが出陣に先立ち残された遺品遺書が展示されております。   修業時代   戦後の約半年間は茫然自失の状態でした。秋になるとようやく自分を取り戻し、その後の自分が進むべき道を考え始めました。その中で、以前から刀鍛冶に嫁いだ叔母から、「修業に来ないか」と誘われておりましたのを思い出したのでした。「鍛冶屋になれば一生涯“食いはぐれ”はないから」と叔母に言われましたが、戦時中学徒動員で火造りの先手をしていたという事も有りましたので、素直に叔母のいう通りになれました。  戦後間もない昭和21年1月荒れ果てた郷土を後に、愛知県蒲郡市竹谷町で戦時中は刀匠だった藤原武則師に弟子入りしました。ところが、一年後には師が病魔に侵されて倒れ、一家8人のうち6人まで病気になるという最悪の事態の中では、とても修業どころではなく、弟子入りして1年間だけ師の仕事を見ながら先手を勤めただけで鍛接も全く出来ない自分が、鍛冶場に入って仕事をし、一家の生活を支えるという有り様でした。  2年半後に私の下に小僧が入り、この子がどうにか仕事も出来るようになったのを見届け、24年10月14日母が病死したのを期に師のもとを離れて故郷に帰りました。当時、師匠はまだ入院していて暇を取るような状態では有りませんでしたが、実家の事情もありまして、喧嘩別れのようにして帰りました。それでも師匠からはハンマー・一丁、ハシ一膳に巣床、それに立てバイスと(善則)という銘を頂きました。それに実家からは米2俵を貰い、其の米を売った金で豊橋市の工具店から金床と鞴を買い求め、最低限ですが開業する事が出来る準備をしたのでした。    昭和25年1月、19才と9ヶ月になったばかりの私が、開業までに最低でも10年〜20年かかると言われる鍛冶職人の道に、たった4年の修業?で入ったのです。 ピッケル発売  試作期間も3年になり販売店も碓井徳蔵の店となったが、今度は価格が問題になりました。というのも当時内外のピッケル価格は¥3,000〜5,000位で店頭販売されておりましたが、私が作るピッケルは仕事量を価格に乗せると¥10,000以上になってしまうのです。黒田氏やU氏とも相談した結果、最後発のメーカーという事と、ピッケルを作り始めた動機から考えても、金ではなく山内東一郎氏のように名前を優先しようという事になり、¥9,000が当初の発売価格に決まリ販売方法も卸し売りではなく、取次店による注文・受付・販売という事になりました。  発売日は38年1月よりとして受注を開始しました。最初の10本ぐらいまでは今までお世話になった方たちに贈りました。    秋になると、黒田氏から連絡があり、来年早々に世界初のエベレスト登頂者の一人で、シェルパのテンジン・ノルゲイ氏が来日する予定があるから、その時日本山岳会を通してピッケルを2本ほど寄贈したらどうかと、連絡してきました。願っても無いチャンスで有りましたので、早速、製作に掛かり年内に仕上げて黒田氏の所へ送りました。  翌39年2月、日本山岳会主催の歓迎会でM会長よりテンジン・ノルゲイ氏に手渡され、このピッケルは後年、インドのダージリンに有る国立登山学校に展示された様でした。   ピッケルの原点を尋ねて  昭和40年の晩秋、私は鎌倉の黒田氏の車に同乗してピッケル作りの原点を求めて北に向かいました。行く先は仙台の山内東一郎氏宅。仙台市在住の日本山岳会会員K氏にお骨折りを頂いて私たちと会って頂ける様取り計らって貰いました。  夜の4号線をひた走り、早朝まだ暗い内に仙台につきました。早速、お宅を探しましたが住所が追廻住宅としか分からないので、随分難儀をして探し出しました。これは戦時中、空襲の被災者を収容するために、青葉城直下に建設された仮設住宅のようでしたので分かり難かったのです。当時山内氏は国鉄職員であった次男の家に居られて、鍛冶場も敷地内にありました。早朝に着いた私共を氏には機嫌良く迎入れて下さり、色々とピッケルに関するお話をして頂きましたが、驚いた事に氏は70才を過ぎてからもピッケルのスピッツエに改良を加えておられ、私が今まで他のメーカーの欠点であったハーネスのすぐ上で起きるシャフトの破損が、スピッツエの足の長さに有ると見ていたのを、氏は既に看破しておられ、ドリルを使わずに手作業で180ミリの足の長さを確保し、より良い品質を目指しておられました。そのあと鍛冶場を見せてもらいましたが、吃驚したのは電気で動く機械が1台も無い事で手回しのボール盤が1台柱に取り付けて有り、ほかには手仕上用の鑢ぐらいが有るだけでした。当時世界一といわれたピッケルが、この鍛冶場から生まれたとは到底考えられませんでしたが、よく考えて見ればピッケルは機械で作るのでのではなく、人が作るものであるという点で納得できました。山内東一郎さん父子と私、黒田さんで記念写真を撮りお暇しました。この仙台行きの目標は元々技術的なものではなく、私がピッケルを作る元になった精神的な面を求めての旅でしたので、この成果は今日まで続いた私のピッケル作りの基層に成ったのでした。    翌、41年4月4日の新聞に山内氏の訃報が載りました。もし、あの時お会いできなかったら一生悔いが残っただろうと思い運命の様なものを感じたのでした。   門田ピッケル   昭和56年6月北海道で少飛20期生全国大会が開かれたのを機会に、札幌市の門田茂氏を訪ねました。私は今まで山内氏のほか、どのメーカーも見にいった事は有りませんが、この訪問には少々訳が有りました。2〜3年ほど前に門田氏が大阪好日山荘の主人と共に突然来豐された事が有ります。私がある雑誌にSNCM・5種(この鋼は最高の靭性を保持する特殊鋼で、鍛造が非常に難しく私も2本ほど作っただけで止めてしまいました)を使ったピッケルを作ったと書いた事があり、門田氏は自分で使って難儀をした5種を本当に使ったのか確かめに来たとの事でした。  山内氏が亡くなられた後、鍛造の国産ピッケルでは札幌門田が群を抜いて普及し私も関心は有ったのですが、なかなか他のメーカーを見には行けなかった。この機会を逃すと北海道までは行けませんので、大会後の特別演習が終わると早速地下鉄に乗り桑園駅で下車しましたが、住所もはっきり知らなかったので訪ねまわりました。が、さすがに天下の門田さんで、ルート5号線沿いのお住まいを探し出すのに10分も掛かりませんでした。お話の後で工場を見せて頂きましたが最盛期には職人さんが5〜6人ほど働いていたそうですが、この時は息子さんと他に一人居ただけでした。機械設備も整っており私が時間を掛け手で削り出しているシャフトは、四角い木材を1度機械に通すだけで断面が小判型の製品が出来上がり感心しました。しかし“手作り”で製作している私には、一ヶ月2百本から3百本という生産量からくる作業行程は、あまり参考になる事はありません。ただ、金属部分はよく出来ているのに対して、木工の方が感心しませんでした。後日になりますがこの事を証明するような事が有りました。地元の人で私が作ったピッケルを買われた人が、友人と春山へ行ったときの事でした。友人がアイゼンに雪のブロックが付くのでピッケルで落としては登っていたところ、知らない内にハーネスの上で折れていたそうです。これは基本的には材質と構造上の問題でハーネスの長さを超えるシュピッツエは門田ピッケルを始め、どのメーカーのシャフトを調べても有りませんでした。シュピッツエの長さは、量産するためには、あまり長くない方が仕事をしやすいのです。あまり長居は無用と私は世間話をしただけでお暇しました。   長谷川氏とダブルアックス    1978年秋、埼玉県のK氏から一寸変わったピッケルの注文が入りました。これは、すこし前から普及してきたダブルアックスという登山技術に合わせたピッケルです。海外では大分前から作られておりましたが日本国内では余り作られておりませんでした。K氏は私の所まで図面を持ってこられ「是非、作って欲しい」と言われました。図面といっても簡単なイメージ・デザインでしたので、作ってみたものの良いのか悪いのか分からないため、ヘッドが出来あがった時点で東京に行き、本人にお会いして確認しようと日時を決め、明日は上京しようとしておりました所へ今度は東京の登山家長谷川恒男氏から電話があり「ダブルアックス用のピッケルを作る気はないか」と、問い合わせがありました。長谷川氏は、当時ヨーロッパの3大北壁のうちマッターホルン北壁〜アイガー北壁と冬期単独登攀を2シーズンで登頂しておりました。その際使用したピッケルは、外国製を自分で改造したピッケルだったので、最後に残ったグランドジョラス北壁は、日本人の作ったピッケルで登りたいという事でした。何という偶然でしょうか、私が明日「上京する」と伝えますと「是非、会いたい自分で引いた図面があるから見てくれ」と言うので秀山荘八重州店で会う事にしました。私は初対面ですので、A店長に同席してもらい近くの喫茶店で話合いました。その席で図面を見せてもらいましたが、設計図と言える程のものでした。しかし機能的で有りながら優美なラインを持ったピッケルのように私には見えましたので、その場で作る事に決定しました。持参した半製品のピッケルも検討の対象に成りましたが、その後、完成してからK氏に引き渡しました。長谷川氏用オリジナルのピッケルとアイスバイルにアイスハンマーは、慎重に製作して1979年2月25日から3月4日にかけてのグランドジョラス北壁の単独登攀に使用され、登頂に成功したのでした。この時使用されたピッケル・アイスバイル・アイスハンマーはスポンサーの御厚意で、松本市のアルプス山岳博物館に展示される事になりました。この時、前後して行った両氏との話し合いのなかで、私は今までのピッケルに対する考え方を変えました。それは、今までピッケルの注文を受ける場合、ピックからブレードまでの寸法だけの変更を認めていましたが、これだけでは使う人の要望には応えられない事を痛感したのでした。使う人の技術・体力・それと対象になる山で、それぞれ違うタイプのピッケルが必要になって来るからでした。特に長谷川氏との出会いの後では、今までのピッケルをノーマル・タイプとし、ダブルアックス用は長谷川モデルとKモデル、それにフル・オーダーと4つのランクを設ける事にしました。 ピッケルの作業行程(詳細な画像入りの工程に飛びます)   ここでピッケルの作業行程を書き述べましょう。まずSNCM・9、42φの素材を67ミリで切断、加工は2種類ある製作方法の内の水平割という加工法で行いますが、最初に丸棒を平たく延ばしてから鏨で割を入れ、それを起こして徐々に延ばしてフィンガーにします。(丁度おしんこ細工で動物の足を作る時、胴体から鋏を使って脚を切り出すと同じで違うのは材料が鉄)反対側も同じようにしてフィンガーを作ります。それから櫃(これはシャフトの頭が入る穴です)を作りますが、この穴は鍛造以外ですとボール盤などで開けているようです。私は目打ち金を使い火造りであけます。両方のフィンガーを作った後の部分でピックとブレードをたたき出します。最後にカラビナ用の穴をセンターに目打ちで開けて火造りを終わります。鍛造時間はなるべく早い方が材質をいためないので、大体1時間15分ぐらいで火作りを終り、其の後5時間位掛けて焼鈍をします。冷えたら今度はグラインダーを使って荒仕上げをしてから、手作業の鑢がけで細かい仕上げをし、焼き入れ前の“ひき土”の作業に入ります。この“ひき土”というのは刀鍛冶が刃紋を出す時に使う手法で、今は亡き師匠が教えてくれたものです。ピッケルに使う場合は焼き入れ時の冷却スピードをコントロールするのに使います。  焼き入れは夜です。これはピッケルの表面を2ミリぐらいの厚さの“ひき土”で塗り込めるため、約850度という鉄の温度、即ち色が分からないので暗闇の中で油焼き入れをします。焼き入れが済みますと鋼化能の上がり具合を確かめてから鋼化能に応じた適当な焼き戻しをします。  次にシャフトを削ってグリップの良い形に丸めますが、アメリカンヒッコリーは木の中では最高の硬さを持っていて鉋の刃がすぐ切れなくなってしまう程です。スキーの素材に使うほどですから木質にも粘りが十分有りますが、それでも強度的な事を考えてエンタシス構造(ギリシャ神殿の円柱様式)を取り入れ、真ん中を太目に上下を細くしました。スピッツェは、仙台の山内東一郎氏が70才を過ぎてからシャフト内に埋め込むシュピッツェの足を、180ミリに改良されたということに敬意を表して175ミリに鍛造しハーネスと共に、この時までに仕上げをしておきます。焼き入れ焼き戻しの終わったヘッドと、シャフト・スピッツェが揃った所で、ヘッドを組み立前の荒バフ仕上げをします。この後シャフトにハーネスとスピッツェを打ち込んで固定し、最後にヘッドを彫り込みます。  この組み立て作業が一番神経を使って行います。メーカーで作る場合には金属加工と木工は別々の人が、別々の工程でしますから巧くいかないようですが、私の場合は一人で全部の工程をこなしますので、この心配はありません。バラバラに出来上がった4つの部品の精密な組み立てによって厳冬期の山行で使用する際、氷への破砕力が100%発揮出来るわけです。 ヘッドの組み付けは2本のリベットでシャフトに固定します。これが済みますと、いよいよ最終仕上げのバフがけを行います。出来上がったピッケルはピック側に、真空溶解材は(三州猿投山麓住善則)大気溶解材は(三河国住作)と鏨で銘を切り、ブレード側に使用者の姓、乃至、名と漢数字で四という番号を除いた一連番号を入れますが、1996年5月現在、2380番まで切っております。又、現在は真空溶解材だけの製作で在銘(三州猿投山麓住善則)です すべての工程を終えて取次店乃至、お客様に発送出来るまでに一振あたり二日半日から三日の作業です。 (追記1999年11月現在2710番台) ナイフ  発売から6年〜7年の間は無名の作ですので、注文も少なく農具も例のティラーが大分普及してきたのと、景気の波が有りまして時期的に仕事量も少なくなって居りました。近くに住む私の長兄が「こんな物を作ってみないか」と一枚のモノクロ写真を見せてくれました。それは誰の作か判りませんでしたが、初めて見るアメリカ製のカスタム・ナイフでした。昭和47年、ナイフの材質も知らない私は有り合わせの材料すなわち、ピッケル用鋼材を使って試作を始めたのでした。  鍛冶屋である私が作る以上鍛造しかありません。私は創業以来ピッケルでも、お客様から持ち込まれる色々な特注品でも、物を作る時には他所で習うという事とコピーはあまりしません。それは修行に行った時からの習慣で、回り道のようですが自分の個性を出すためには独学で良いから一生懸命模索する事と、試行錯誤を繰り返す事によって、より良い工程と良い作品が生まれてくると考えるからです。最初の1本は簡単に鍛造出来ましたが、仕上げる方法が全く分かりませんので数ヶ月の間、鞴(ふいご)の横に転がしておきました。それでもと気を取り直して、何とかナイフらしい形にはしましたがハンドル材は何も有りませんので、ヒッコリーを使い仕上げました。その間に色々ナイフの事について調べてみました。アメリカの鍛造メーカーの事から、材料、特に鋼材については鍛造に向いているかどうか、しかし、悲しいかな私のピッケルから得た知識からは何もでてきません。そこでその頃には二村作ピッケルの取次店になっていた、秀山荘八重洲店のA店長がナイフに詳しいと聞き、上京して話したところ、六本木にコレクターで在りながら実際にフィールドで使い、なおかつ当時¥500,000円以上もするアメリカのR・W・ラブレスのナイフを砥ぎ減らすという人が居るから紹介しようと、連れて行ってくれました。其の人、Y氏は元鎌倉市長の子息で広告代理業のような仕事されており、六本木のオフィスを訪ねて、お話をお聞きしたのでした。Y氏は私が作った最初のナイフを見て、開口一番「あなたは何に使うナイフを作りたいのですか」と来ました。これには参りました。モノクロ写真を見ただけでナイフを作ったものですから目的も何もありません。ただナイフらしい形をしているだけでしたから、しかし、Y氏も鍛造で作るナイフには興味があるようでした。それから色々とお話しを聞き対人殺傷のボーウイーナイフから、小さい物は手の中に入る様な物まで、本当にたくさんの種類のナイフが有るようでした。それに加えてメーカーの個性が入りますから、もう百花繚乱Y氏のコレクションの中から10本近いカスタムナイフを見せて頂きましたが、アメリカの一流メーカーの作ばかりで目の毒ならぬ目の薬になりました。デザイン、鋼種、熱処理、ハンドル材、等々どれを取っても同じ物は有りませんでした。たった一回の上京で得た知識は膨大なもので問題は、このたくさんのデータのなかから自分の作りたいナイフを探し出す事でした。家に帰ってからは、また例によって試行錯誤の連続でしたが、やはり自分の目でカスタムナイフを見たという事はこの上ない収穫で、半年後には鋼種もSUS440Cを採用し鍛造を始めました。ピッケル用のSNCM9と比べると、この鋼は途方も無い硬さで、最初は鍛造が出来ませんでした。SUS440Cや後から使用しだしたATS34を含めて、この種の特殊鋼は従来から鍛造は不可能に近いとされて、誰も手を付けていない分野でした。アメリカでも炭素鋼を使った鍛造ナイフは有りますが、特殊鋼は有りません。しかし、アマチュアならまだしもプロですから、そんな事も言っておられません色々と加工方法を変えて探ってみましたら、その原因は鍛造できる温度範囲が非常に狭いと言う事が判りました。普通、火加減を見るのは工場ではバイロメーターを使い、鍛冶では目で見て判断をします。多少の誤差があるので、850度を少しでも超えると火花になって飛び散るし、800度を少しでも下がると今度は硬くて伸びてくれません。何とか、この鋼種をマスターして誰も作った事の無いナイフを作ろうと一生懸命になりました。2〜3ヶ月たつと、あれほど硬かった440Cも何とか伸びるようになり、ヒルトも一体で鍛造出来るようにになりました。しかし、鍛造後の仕上げに入ってもグラインダーでは削れますが鑢はぜんぜん掛からず、ボ−ルバンで穴明けしようにも、普通のドリルでは歯が立たず、ダイヤモンドの次に硬いボラゾン(超鋼のドリル)でしました。これは合金鋼の特徴で、鍛造で加熱すると温度が下がるに従って鋼化能が上がり、余程うまく焼き鈍しをしないと仕事が出来ません。本当に難物です。   ナイフ草創期  ここで、1972年〜1996年のナイフ事情を見てみます。ナイフ中興の祖と言われたR・W・ラブレス。かれはアメリカの西部開拓史に登場するボーイー・ナイフが欲しくてランドールに注文したところ、2年待たされたので自分で作り始めたとのこと。  すこし溯って昭和47年すなわち1972年、私がナイフの試作を始て少したった頃に、東京のA氏、奈良のM氏と私が、豊橋市のW氏宅に集まって徹夜でナイフの話をしたものです。話の中心は何といってもカスタムナイフのR・W・ラブレスで、特に、後日ラブレスに師事する事になったA氏は熱心で、デザインから加工方法までプロ・アマの区別無く議論したものでした。これはアメリカの建国200年の少し前で、日本でもアマチュアの人がナイフに興味を持ち始めた時でした。この集まりが後年ジャパン・ナイフ・ギルド(JKG)に発展したのでした。 440C〜ATS34  其の頃は、まだ日本ではプロのナイフ・メーカーは少なく、しかも、製作方法は総てと言っていいほどアメリカのR・W・ラブレスが創り出したストック&リムーバル法で、ナイフを“削り出し”で作っておりました。又デザインも皆ラブレスのコピーにちかくて、個性は全くと言っていいほど有りません。私も最初は構造上ラブレスのテーパードタングを採用して、ブレードからヒルトとタング迄の一体鍛造をしていましたが、デザインだけは自分で図面を描いて作りました。  試作も既に2年ぐらいになりましたので、そろそろ実際に売り出せるモデルを作る事になり、Y氏とも相談のうえ、3吋1/2〜5吋までの1/2吋きざみで4種類のモデルを決めました。ネームミングもブレードに合わせて3吋1/2はバックパッカー、4吋はハンテング、4吋1/2もハンテング、5吋はユ−ティリテイとし、初めてピッケルでも作らなかったパンフレットをモノクロで作りました。  この4種類のナイフを揃えて発売に踏み切ったのが、試作を始めてから3年後の1977年6月でした。発売は今までのピッケルのルートを使い、登山用として売り出しました。それは、ナイフはピッケルと違って銃砲刀剣等の規制があるからで、警察等に問い合わせての上で決定しました。やはり440Cの鍛造という事で、宣伝はしませんでしたが相当な需要がありました。“インテグラルナイフ”これでも十分なセールスポイントになります。しかし、まだ私には納得出来ませんでした。もっと特徴のあるナイフが有るはずだと考えたからです。ブレードからヒルトとタングその上にエンドボルスターまで、1体で鍛造する事を思い付きました。これは完全に近いインテグラルナイフです。ラブレスでさえ、このフル・インテグラルナイフを評して「これは、資源の無駄使いだ」と言わせるほどで、ストック&リムーバル法で作ると、ブレードからヒルト迄とヒルトからエンドボルスターまでのタングを作るのに、材料の70%ぐらいを削り捨てるためです。ラブレスでも、現在までに2〜3本?程しか作って無いようです。  私は、これだと思いました。鍛造ですと20%削り出せば出来上がりますし、鍛造だから出せるメリットもあります。それはストック&リムーバルで削り出すよりも、鍛造する事によって鉄の分子構造が密になって、熱処理した後、靭性が増して切れ味が長持ちするという事です。これは従来からギヤなど歯車を作る場合、材料を必要量より少し多めにとって、鍛造してから削った方が長持ちする事が分かって居るからです。鍛造でしか出来ないナイフその物。しかし、そうは言ってもこれには相当難しい作業が必要になります。最初にヒルトを作るためにタングを薄くしていきますと、鍛造する機械(ベルトの反発力を利用したハンマー)の構造上、エンドボルスターを作るための厚さが確保できません。一旦薄くなった物を広くするということは、木では出来ませんが鉄の世界では可能なのです。しかし、其の鉄が440Cとなると話は別で厚さ6ミリ〜7ミリぐらいまで薄くなった素材を、今度は左右に幅20ミリ以上まで広げなければ成りません。この仕事をするためには特殊な治具が必要になってきます。それを普通の鋼で作りますと余りにも440Cが硬いため、治具がすぐ痛んでしまいますので、材質が問題になってきましたが、私はいつもの調子で工場の中を見渡して目に付く材料、即ち、SNCM・9で作ってみました所さすがに対摩耗性の良さが出ました。その治具を今でも使っていますが全然へたって居りません。  ナイフの友人、A氏が家業の金属加工業の傍ら、ナイフの制作に当たっていましたが、家業の中の一部門として独立し、東京都板橋区成増の工場内に、ナイフ・ショップM・Aを開いていました。ある時、ピッケルの用事で上京したので立ち寄るとA氏から「弟が毎日、都内全域を回ってショップからの注文を受けているから、よかったら二村ナイフの注文を取らせてくれないか」と言われました。今まで販売ルートとして登山用具店を利用してきましたが、ナイフのルートとしてはインパクトに欠けます。何かいい販売ルートが無いかと考えていた時でしたので、早速OKしました。今まで口コミで、すべて注文生産でしたのでショップへ卸すのではなく注文販売をするという、この強力な販売網は有り難いものでした。その話の後で、A氏が20ミリ×70ミリくらいのフラットバーで長さ1メートル50センチ程の鋼材を持ち出してきて「これが、現在のナイフ材料の主流になっているATS34だが、家ではストック&リムーバルだから使えないので、これでナイフの鍛造が出来ないか」と持ち掛けられました。出来たナイフを優先的に納める条件で、その材料を無償で貰い家に帰りました。  その翌日今までと違った材料でナイフが作れると喜んで鍛冶場に入りましたが、この浮ついた気分は仕事を始めるとすぐに吹き飛んだのでした。今まで440Cが一番硬いと思っていましたが、この材料はそれよりも数倍も硬く、真っ赤に赤らめて叩いても全然伸びてくれません。まるで冷えた鋼鉄を叩いているような感じでした。それは今までこれ以上硬い鋼はないと思っていた440Cが今度は柔らかく感じる程で、もう大変でした。ATS34が硬いという事は、即ち、温度管理が非常に難しいという事です。最初の一本を鍛造した所でA氏に電話をしました。「これは鍛造の出来るような鋼ではない」と、泣き言は言いたくなかったのでしたが本当に手がしびれて二度と火造りしたくないと思ったほどです。しかし、その内に鍛造に適した温度が分かるようになると徐々に鉄が伸びるようになり、手の痺れるのも無くなってはきましたが、鍛造の難しさは変わり有りません。少しでも温度が高ければ火の粉になって飛び散るし、低ければ鉄の内部に傷が入ってしまいます。今まで私が手がけたピッケルにしろナイフにしても、これだけ難しい材質は有りませんでした。難しい材質だからこそ仕事のやり甲斐があるというもの最初のうちはテーパードタングのナイフを作っていましたが、その内に440Cで完成していたエンドボルスター迄の鍛造に挑戦しました。最初のうちはエンドボルスターの付け根に、よくクラックが入りました。この原因がどうしても分からず、鍛造工程の見直しをしてみましたが、それでも分かりません。440Cでは失敗しませんでしたので、これは材質からくる問題だなと気が付きました。そこでエンドボルスターの加工にかかる時間と、加熱回数を倍にして鍛造加工した所、クラックが入らなくなりこの問題は解決しました。しかし、まだ問題があります。それは鍛造による歪みの取り方で、これを確実にしておかないとナイフが完成してから泣きを見ます。それはナイフ本体にハンドル材を取り付けるための穴と、エンドボルスター特有の重量増加を防ぐための穴を、多くあけるためにおきる現象で、鏡面研磨をしたタングの側面に真っ直ぐなクラックが入ってしまいます。こうなると、もう商品には成らないのです。 ナイフ製造工程  ここで鍛造ナイフの作り方を述べます。440CでもATS34でも鍛造の仕方に違いは有りませんが素材の形が違いますので最初の工程だけ異なります。440Cは36φの丸棒から始めますが、ATS34は20ミリ×40ミリのフラットバーですので440Cの方が1工程多くなります。他に鍛造をしているメーカーがないので比較の仕様が有りませんが、私はまずタングから作り始めます。ヒルトとブレードに必要な部分を残してタングをテーパーにたたき出しますがビックホーン・シリーズのエンドボルスターを出すためには、この時、テーパーの先に5ミリ〜7ミリの厚みを残します。この厚みと15ミリ位の長さの部分を圧縮してエンドボルスターをたたき出します。  タングが出来ますと今度は反転してブレードにかかりますが、ヒルトの厚みと幅を慎重に残しながら鍛造をします。  火造りに要する時間は、ナイフの大小によって違いますが、大体1時間前後掛かります。ピッケルと同じで成るべく時間は短い方が良いようです。鍛造が終わると焼鈍しますが、これもピッケルと同じく鍛造で出来た内部応力の除去が目的ですので、時間は4〜5時間掛けて除冷します。  次は荒仕上げに入ります。最初は主にグラインダーを使いますが、これはブレードのホローグラインドを出すために、砥石の直径30センチの曲面が最適だからです。ストック&リムーバルですとブレードの付け根に、通常リカッソという部分が付いていますが、私はグラインダー石の両サイドの部分を使ってアール構造にするため、私のナイフにはヒルトから直接ブレードになりリカッソは有りません。荒仕上げがすむと、今度はベルト・グラインダーでブレードの面を砥石の粒度を細くして仕上げていきます。私はペーパーの粒度を60番から120番240番最後は400番まで掛けます。こうして焼き入れ前に刃先の厚さを0.45ミリから0.5ミリに揃えます。ハンドル取り付け用のタングの穴明けはこの時にします。  さて、次は焼き入れです。ピッケルに使ったような“ひき土”をこの場合も使用します。これはナイフの刃先が非常に薄いため、高温の炎を直接受けないためと炉から出して冷却油にいれるまでに温度が早く下がってしまうので、これを防ぐ意味で極く薄く塗ります。焼き入れが終わると今度は焼き戻しですが、この焼き戻しも私独特の方法でします。それは種油の中で145℃から150℃までの温度で約2時間掛けて戻します。この処理のお陰で硬度は余り上がりませんが、靭性が増して切れ味が随分長持ちするようになりました。  さて、仕上げに入ります。これからは本当の手仕事になります。まずブレードの研磨から始めます。前に機械で400番まで掛けたブレードに600番の水研ペーパーを使って手で砥ぎだします。これは大変な作業ですが、これを確実にしておかないと後で困る事になりますので一生懸命に砥ぎます。この時見残した機械仕上げの傷が最後のミラー仕上げになって浮き上がって来るからで、次の1000番〜1200番最後の1500番まで気が抜けません。こうして砥ぎあがったブレードに中間研磨材のグリーン・クロームを使ってバフ仕上げを施します。ブレードが最終仕上げ直前まで出来上がったので、次はハンドルの加工に入りまが、これはお客様の希望で色々のハンドル材を使用します。私はウッドの材質に拘っています。動物の中で最初に道具を使った人類、石器時代に動物を仕留めるために手に石を持つだけではなく、手近にある木に石器を括り付け緩衝材として使用したのです。続いて石製ナイフにもハンドルが付けられましたが、木と石との接着に天然のアスファルトが使われています。以来何万年を経て現代に至るまで、人間に一番近い道具として使われて来ましたが、近年になりハンドル材として軽金属やプラスチック、合成樹脂等が多用される様になりました。  タングとの摺り合せ・穴あけが出来るとハンドル材を接着するためボルト・又はピンで取り付けます。接着剤は熱効果型ですから50℃を2時間持続して保温します。ハンドル材が完全に冷却してから手に馴染むような形に削り出します。既にブレードは研磨して有りますので、その他の部分を120番から400番まで機械ペーパーでその後は手によるペーパーで仕上げていきますが、1200番で止めます。ブレードは凹面ですが、これは他の部分は大体凸面ですのでバフの掛かりが非常に良いからです。ハンドルからタングとすべての部分にバフが掛かりますと、次に最終研磨をダイヤモンド・ペーストの2ミクロンを使って磨きます。これで完成しましたので、ビックホーン・シリーズにはエッチングで(Z・FUTAMURA・forger)と入れノーマル・シリーズにはヒルトの上の部分に(善則)と鏨で銘を切ります。それからお客様の希望に応じてネームも切りますが、刻む場所が幅4ミリ前後のタングの上に入れますので虫眼鏡が必要になる位です。ピッケルの場合いは普通の鏨で切れますのでサービスで入れていますが、440CやATS34は超鋼の鏨でないと切れませんので有料にしました。  その頃、雑誌(フィールド&ストリューム)のS編集者がナイフの特集を組み私の所へも出品を呼びかけてきました。ハンティング・フィッシング・キャンパーズのカテゴリーで、これからのナイフを目指して自由に作って下さいとの事でした。これは良い機会でしたので出来上がったばかりのフル・インテグラル構造のナイフに、カテゴリーに合うようなデザインを施しました。これらのナイフには以前から売り出していた4種類とその後、追加発売した3吋トラウト&バードと5吋7/8フイッシングの6種類のナイフをノーマルシリーズとして刻銘で善則と入れていたので、全く違うシリーズとしての位置付けを表わすために、エッチングで(Z・FUTAMURA・forger)とブレードに入れ出品しました。これに伴ってシリーズのネーミングもビックホーン。マークもビックホーンのヘッドときめて、このエッチングに必要な機械はアメリカのマーキング・メソッド社製を買い入れました。こうして、二つのシリーズに2種類の鋼種、それとスタッグから黒檀にいたる20種類以上のハンドル材に、お客様の図面から作るフル・オーダーのナイフ迄と、バリエーションは物凄く増えました。 シース・皮細工  このタイプのナイフはシース付きになります。これも自分で作りますが最初は皮細工などした事が有りませんので、靴屋さんに作ってもらう予定でした。しかし、その当時でも一般の靴屋さんで革靴を作っている人は見かけなくなっていましたので、これまた自分で作る羽目になってしまいました。何しろ畑違いですので牛皮を売っている店から捜さなければなりません。地元から始めて最後に名古屋市内で問屋さんを見つけて、牛皮や皮細工用の道具を仕入れました。このナイフのシース作りで必要になる材料、工具、作り方など東京では簡単に手に入るでしょうが名古屋近郊では中々見付からず苦労しました。  シースを縫うためのミシンも欲しかったのですが、余りにも高価だったので鍛冶場で使っているボール盤を利用した穴明け機を考て手縫いで作りました。糸も普通は麻糸にパラフィンをコーティングした麻糸を使っていますが、私はヨット用のセールラインというイギリス製ハンドメードの糸を使います。これはY氏に友人のヨット用品ショップを紹介してもらい其処から手に入れる事が出来ました。鉄素材にしろ皮素材にしても他所に習いに行くのではないので、一連の行程はすべて独学、独習での作業になりました。 包丁  このピッケルに使用しているSNCM・9は、長年登山に使っても摩耗が少なく、優れた対摩耗性を持っていますので、この特性を生かした何か良い物がないかと色々と探して居りましたが、ある時家で使う包丁を作って見ました所かなり良いものが出来ました。何しろ直径42φから厚さ2ミリにまで、叩いて薄くするため鉄の分子構造がより密になるので、良い結果がでたのだと思います。しかし焼き入れが通常の油焼き入れの方法ですると、硬度は上がるのですが刃先の部分の厚みが0.6?ぐらいですので“ぐにゃぐにゃ”に曲がって仕上げが出来ず、お釈迦になってしまいます。  また、試行錯誤の連続が始まりました。結論は焼き入れの冷却材を何にするかという事でした。特殊鋼ですので水では駄目、それではと油を使っても駄目、これは、この鋼の本質を見抜かないと出来ないと思いました。そうしている内に今まで気が付かなかった事ですが、ピッケルを鍛造する時にでるSNCM・9の切れ端が焼き入れもしないのに、かなり鋼化能が上がるのに気がつきました。もしかしたら空冷で焼きが入るのではないかと考え、早速空冷で焼き入れをして見ました。しかし何とした事か焼きが入っているのに今度は全体が“ぐにゃぐにゃ”になってしまいました。一体どうした事かと思いましたが刃先の部分の“ぐにゃぐにゃ”がなかったので取り敢えず仕上げる事にしてペーパー・グラインダーに、掛け水を使って冷却しながら削りましたら、どうでしょう刃が付くまでに通常の焼き入れした硬さになりました。  これは金属の経過是正という現象で、ナイフの場合にもボブ・ラブレスなどは硬度を上げるために、この金属の経過是正を使って最初HRCスケールで59位の硬度から3回ほど加熱、HRCスケール64まで硬度を上げているそうです。これで今までに無いような包丁が出来上がりましたので、早速東京のY氏に試験的に使って頂くために送りました。家でも一本おろして使ってみましたがこの包丁は焼き入れが空冷のためか余り硬度は高くなくて、HRCスケールで56くらいでありますがSNCM9の特性で対摩耗性は優れており、5〜6月以上使っても切れ味が落ちず、又、タッチアップも砥石を使う必要は無く硬度が低いため皿の底か陶器の茶碗(いとぞこ)を使い約20゜の角度で擦るだけで刃が付きます。これを私どもは“刃を立てる”と言っておりますが、砥石で研げばこの鋼は本質的に甘いので、すぐに減ってしまいますが、こうして使えばかなり長い期間使えます。Y氏は3年ほど使ってから「これだけ素晴らしい切れ味と耐久性があれば、売り出したらどうか」と連絡して来ました。また「これは、男の使う包丁だ」とも言ってきました。しかし今一つ不安要素があったのです。それはメンテナンスが簡単なようでなかなか難しのです。約20°の角度を保持して擦るのが女性では難しく、やはり男性がこの作業をしないと長く使えません。Y氏が“男の包丁だ”という言葉が良くこの事を表しています。しかも、この鋼はステンレスと違って台所の水仕事に使った後の始末次第では、一晩で真っ赤に錆びます。現在のステンレス万能の時代に良く錆びるという事はマイナス要因である事に間違いありません。  あれやこれやを考えますと、なかなか売り出す気にはなりませんでしたが販売方法を今迄と違って口コミを使い、この包丁を使った人に良い結果がでたら宣伝して頂くという事にしました。これは色々なマイナス要因を克服するためには一番良い方法だと思ったからでした。 家庭   1988年、次男の鉄夫が結婚を機会に会社勤めを辞め家に入ってナイフを作りたいと言いだしました。43年間にわたって一人で仕事をしてきましたが山内東一郎氏の事もあり、跡取りがなかったとしても、この仕事は私一代で終わればよい事だと思っていましたので、これは大事件でした。  私は27才の時に結婚して妻、恵美子との間に1女2男をもうけました。長男は性格的に鍛冶仕事には向きませんでしたが、次男は名前を付ける時に庚申月生まれだから金偏を付けるとよい事があると親戚の人に言われ鉄夫と名付けました。この事が影響したのか分かりませんが、就職も鉄工関係の会社に入り数年の後、結婚して家に入り家業を継ぐ気になったのでした。本当は外へ出して他人飯を食べさした方がよいのですが現在では徒弟制度もなくなっており、会社勤めそのままのスタイルで小僧をするという変則的な形になりました。ともかく後継者が出来ました。喜んでよいのか、悲しんでよいのか分かりませんがナイフだけは一安心です。しかし問題はピッケルです。1996年現在、まだ本人がその気にならないようで取り掛かっておりませんが、私は一向かまいません。それは30才40才になってもチャンスがあって本人がその気になり仕事に興味を持つようになれば、自然に欲もでてくるので大丈夫です。今はその様になって欲しいのですが本人次第ですのでこれは何ともいえません。成る様にしか成らないというのが現在の私の心境です。とはいっても仕事は8年もしておれば大分腕も上がりますので、ナイフの注文も大分増えてきました。鉄夫はナイフに対する考え方が私とは違います。それは、私が道具としてナイフを作っておるのに対して、鉄夫は工芸品として捉えています。だからナイフとしての仕上がりは鉄夫の方が奇麗です。それでも私には(人の使う道具を作るプロ)という意識がありますのでJKGとは一線を引いており、鉄夫には、この意識が有りませんのでJKGに入会しております。 趣味  私の趣味は音楽・スキー・釣りとバイクです。この趣味が私の人生に大きく影響しております。 音楽  小僧時代の半ばごろ仕事が終わってからの時間を使って音楽を始めました。最初に尺八をかじりましたが思うように音がでませんでしたので、すぐに中止、替わって登場したのが、なぜか判りませんがバイオリンでした。これは多分周りにも静かで気兼ねなく練習できると思ったからです。だがこれは認識不足でした。素人の鋸引きといわれるぐらい物凄い歯ぎしりのような音が当分続くのでした。幸いな事に母屋とは離れた所に鍛冶小屋が有り付属の部屋で寝泊まりしていましたし、周囲には民家もなく、しかも部屋から50メートルと離れない所を東海道本線が通っており、その上夜になると頻繁に貨物列車がはしり、この物凄い鋸の音を消してくれました。  学校時代には学徒動員で全ての教科が放棄されていました。特に音楽は国語・数学・理科などと違い、まったくしませんでしたので楽譜が読めません。いくら我流でも楽譜が読めなければ鋸は挽けません。最初のー年間は“カエルの子”を追いかけるのに費やしましたが修行が終わる頃には何とか弾けるように成り、夜になると流行歌を弾いたりして寂しさを押さえておりました。 昭和25年独立して仕事を始めると、いろいろの所から仕事が入るように成りましたが、この中に市の水道課が有りました。現在と違って水道工事はすべて手仕事で行われており、使われる道具の鶴嘴や唐鍬の修理を請けていました。ある時、時間外に水道課へ行くとM係長がベース(楽器のコントラバス)を手にしていましたので、何か場違いだと思って聞いてみると市役所の内部に同好者が集まって音楽部を作っており毎週一回練習をしているとの事、詳しく聞いてみるとタンゴ・バンドだがバイオリンが無いとの事でした。私も独習ですか弾いていると言いますとぜひ参加しないかと誘われました。  これがきっかけになり部外者ではアコーデオンで郵便局に勤めるM氏に次いで二人目の部員になりました。しかし練習に参加して見ると独習だけで来た私ではバンドのテンポにぜんぜん合いません。まだ部員の皆さんも本格的では有りませんでしたが、それにしてもひどい私のバイオリンでした。これでは附いて行けないと、かかさず練習に参加して約半年で合うように成り最初の演奏会にでました。が、今度は舞台の上で上がりっぱなしになり、お客さんの顔や音符がぜんぜん見えません。無理も有りません、なにしろ鍛冶屋という仕事は工場の中で一年中暮らしており人前にはでません、しかも長い間一人だけで練習をしており大勢の聴衆が居る前で弾いた事は有りませんでしたから。 昭和30年頃に成ると国内も大分落ち着いてきており、音楽も流行歌を始め外国の唄も入って来てダンスホールも随所に有りました。しかし、生演奏の出来るアマチュアバンドは極めて少なかったので、あちこちからお呼びが掛かり、ある時は刑務所の慰問に出かけたり学校のPTAの催しにも行きましたし、また祭礼の余興に花を添えてよろこばれました。  バンドのメンバーも増えて演奏の幅も広がりましたので、舞台の上であがるのも徐々に少なくなり専属の歌手?も10名ほどいる様に成って全盛期を迎えました。しかし10年もたつと戦後の音楽教育を受けた若い人がポップスをメーンにしたバンドを作り始め戦前からのタンゴ・バンドはホール以外ではあまりうけなくなり、またメンバーは市役所内でも年齢的にも上級職になり練習もあまり出来なくなり、ついに休部となりました。 スキー    次はスキーです。これは一番長く続いており現在でも冬になるといそいそと出かけます。始めたのは1953年1月、長野県菅平高原で行われた中日スキー学校に入校して生まれて初めてスキーの板を履き講習を受けました。この時偶然にも同室になったのが前述の内藤氏でした。終戦直後の当時は食糧難で宿に泊まるのには米を持参しての参加でした。戦前のスキーは金持ちの遊びでしたので周りの人から“貧乏人がスキーに行く”と、よく非難されました。しかし、2シーズン目にもなるともう病みつきになって居ました。車の無い時代ですから中央線の最終列車に乗るため夜の闇に紛れて、こっそりと家をでて最終電車に飛び乗り名古屋駅に向かったのでした。割合に上達が早く3年目にはスキースクールの上級クラスになり片桐先生に指導を受ける事になった訳でした。  この野沢温泉という所は何か因縁が有る所で、後年ピッケルを作るのに重要な人が2人も登場して来るわけですが、1986年1月4日、日陰ゲレンデに於いてスキー中アイスバーンで転倒しました。ところが何も異常が無かったので、そのままスキーを続けて2泊3日の予定を終えました。家に帰ってからも普通に仕事をしておりましたが、1ヶ月ほどすると頭痛が始まり2月の終りには平行神経までがおかしくなり、スクーターに乗っていても、まるで雲の上を走って居るようになりました。スキーから帰って2ヶ月も経っていますので、まさか原因がスキーだとは気がつかなかったのですが、ともかく総合病院に行き脳外科で診てもらいました。たまたま、診て下さったB先生が私の家から5軒程となりの病院宿舎に住んでおられた人で、親切に診て下さったのです。診断は外傷性慢性硬膜下血種で即入院、即手術とのことでした。やはり転倒の際、側頭部を強打したのが原因で、頭蓋骨内に約100cc(コップ半分ほど)の出血があり、後一日か二日で危険状態になる所でした。手術のお陰により3ヶ月ほどで仕事に戻れました。この入院を含めて1986年から5年間に三回、命に関わる病気をしましたが、その都度何とか切り抜けて現在にいたっています。 釣り    次に長く続いているのが釣りです。子供の頃から近くの矢作川で釣りをしていました。鍛冶屋を始めたころには矢作川で鮎釣りをしていましたが、1965年には磯釣りに転向、主に東海地方の磯で大物を狙いました。しかし、余り大きな獲物は有りませんでしたが、あの壮大な太平洋に面した磯での釣りは暗い鍛冶場での仕事の後には、いい気分転換になります。又健康にも良いのでせっせと通っています。 バイク    バイクに付いては1990年にやむをえない事情で降りましたが、最初に乗ったメグロ500から数えますと6台のバイクを乗り継ぎました。よほどバイクが性に合っているのか、若い人でも2〜3時間乗って走って居ると、もうへばっておりますが私は一日8時間ぐらいのツーリングなら平気です。長距離のツーリングは4台目に購入したヤマハRZ125ccのバイクで始めました。  最初は東北南部に目標を立て、1983年9月2日名古屋港から、太平洋沿海フェリーで仙台港まで飛びました。船内は長女の手配で1等船室に収まり快適な船旅でしたが、下船してからは地獄のソロツーリングが始まりました。時期が真夏でしたので走行中は快適ですが、信号待ちの時は背中が焼けるようで閉口しました。しかし、一旦郊外にでると行く先々で緑滴る山々や清冽な川にも逢えます。この時のツーリングコースは仙台から牡鹿半島の先端に位置し、金華山を一望出来る国民宿舎牡鹿荘で1泊、翌日は蔵王エコーラインを通って米沢経由、磐梯スカイラインの中にある白布温泉に泊まりました。この日と次の日の午前中は、日本でも有名なスカイラインが連なる山岳道路をひた走り、午後には国道4号線を東京に向けて炎暑と排気ガスの中を走り抜けました。上野に付いて食事を取るために入ったレストランで、お絞りをお代わりしたほど顔中真っ黒でした。結局3泊4日で無事終わりました。このツーリングに味をしめて2年後には北海道ツーリングの計画を立て、バイクもスズキRG250に変えました。  1985年6月29日、折からの台風接近の中を決行、豪雨をついて敦賀港まで走り午後11時のフェリーに乗船しました。31時間の航海の後小樽港に上陸したのが翌々日の午前6時でした。この時には既に小雨が降り出しており、台風が後を追いかけて来ているとは知らずに最初の目的地稚内に向けて走り出しました。しかし札幌を通過する頃には豪雨になっていて、その先音威子府付近まで台風崩れの風雨に祟られどうしでしたが、咲来で昼食を取る頃には天気も回復しました。  稚内に着いたのが午後5時で走行距離は約400キロ、11時間のアルバイトでしたのでさすがに疲れましたが、予約してある利札会館に入ると驚いた事に昼間からストープが赤々と燃えていました。宿の人に聞きますとストーブを付けないのは8月9月の2カ月だけだそうです。翌朝は気温10度を切っており、このストーブの有難さが良く分かりました。  2日目の朝は8時に出発して、宗谷岬を経て網走に向かいました。天気は快晴で良かったのですが、オホーツク・ラインは気温が低く気持ちを引き締めて走行が出来ました。網走から納沙布岬までのコースは国後島がはっきりとみえて国境へ来たのだと感じました。今夜の泊りは弟子屈町の当別温泉でした。温泉で冷えた体をゆっくり暖め夕食までに時間が有ったのでうたた寝をしてしまいました。そのせいで一夜あけたら寝冷えで風邪をひいてしまい38度も熱がでましたが、道内の宿泊予定はクーポンで組み立てて有るので、仕方なく宿のおかみさんに風邪薬を一服貰って飲み、そのまま出発しました。その日は摩周湖に阿寒湖を見物して池田町に降り、ワイン城で昼食しましたが、風邪のせいか食前に出たよく冷えたワインの美味かった事、休憩した後、帯広に向かうが市街地に入ると段々熱くなって来ました。チョコレートを買いに六花亭に入って寒暖計を見ると暑いわけです32度有りました。3日前の稚内では10度を切っておりましたので、その差は20度を超すわけで、昨夜引いた風邪も汗と共に飛んで行ってしまいました。こんな暑い所はご免と帯広を脱出して、狩勝峠から樹海峠を経由して富良野に向かいました。さすがに富良野はスキー場だけあって涼しく朝晩は肌寒いぐらいでした。  次の日は、苫小牧フェリー・ターミナルに寄り道して、その後津軽海峡沿いの涼風の中を突っ走り登別温泉の先のカルルス温泉に泊りました。6日目は午前中雨でしたが内陸に入り洞爺湖を過ぎる頃には雨も上がり、くっきり姿を現わした羊蹄山を横目に見ながら国道5号線を北にとり札幌に向かいました。余市市まできても、まだ時間に余裕が有りましたので、予定に無かった積丹半島に立ち寄りました。しかし、この番外のコースは今回のツーリングの中で最高のロケーションで、日本海の荒波に削られた岬の奇岩怪石は息を呑むばかりでした。今夜の泊りは市内でしたので夕食前に藻岩山に登り札幌の夕景を鑑賞、食後はすすきのを散策と道内最後の夜を楽しみました。翌日朝8時小樽港でフェリーに乗船して北海道に別れをつげて舞鶴に向かいました。こうして私の北海道内2548キロ6泊7日のソロツーリングは無事に終わったわけです。  この成功がツーリングのモデルになって、長距離では1990年3月25日にスタートした九州一周2.326キロ9泊10日の行程に、ヤマハSDR200を駆って走り、満59才の誕生日を九州の北端関門海峡を臨む、めかり山荘で祝いましたし四国一周や中国地方半周、伊豆半島一周など、ほとんどの道を走り回りました。    1990年8月26日福島県会津若松市で開催された少年飛行兵20期生全国大会にバイクで参加し帰路、福島県只見町で交通事故に遭い新潟県小出町の県立小出病院に入院、手術・治療とリハビリのために約半年間休業してお客様に多大の迷惑をかけました。このため、まわりの人々や家人からの忠告を受け、やむを得ずバイクを降りました。しかし、運が悪ければ死亡事故だったのに重傷ですんだという事は、これは神様がこれからも生きて仕事を続ける様にと配慮して下さったものと解釈してバイクを降りました。 チャレンジ.マイドリームハウス  1994年12月22日民映研のネットワーク作りの一環として、深谷氏と九州に行きました。まず熊本県阿蘇郡小国町のA氏に会い、その後福岡”民映研の映画を観る会”のH女史に合って交流を深め、翌年3月開かれる民映研創立20周年記念飛騨白川郷セミナーに向けての下準備を行いました。  その際A氏にとある店に招待されましたが店内を見てびっくりしました。中心に直径7〜80センチもある太い小国杉の8メートルほどの柱を立てた8角形の構造で、その心柱の力強さと頭上に広がる空間に圧倒されたのでした。  この時は強い印象を受けただけで終わりましたが、96年1月になって後遺症がでてきました。深谷氏にローコストの土地を斡旋してもらい家?を建てる事に成ったのです。木材は20年生の桧を長野県木曽郡山口村が施工する道路工事のため、廃棄処分にすると言う情報を得て、この材(約80本)を伐採価格で買い入れて瑞浪市の予定地に運び込み、2ヶ月掛けて皮むきをして乾燥のために積み上げました。  約一年間乾燥した後、この図面を基に一人で墨を打ち丸太を刻み、こつこつと作業をするとなると、予定地の林の中に私の夢殿が建つのは何時の日かなぁ… コンピュータ  話は前後しますが、1994年1月、世の中の移り変わりを良く見て居ましたが、これからはコンピュータの時代だと遅れ馳せながら感じましたので、我が家もコンピュータを導入しました。それは私も60才を過ぎて、そろそろ鉄夫に家業を譲る事を考える時が来たからです。それまでに鍛冶場の機械化を進め、最初にアメリカ製のバーキングというベルト・グラインダーを中古で入れ、次に中型のフライス盤を、やはり中古で据え付けました。これで作業性は随分良くなり、ハードの面ではこれで十分ですが、こんどはソフトの面で私が今までして来たような手書きの収支日計帳などの経理や伝票の管理では、もう時代遅れになって来たからでコンピュータを使えばナイフのデザインでも、お客様の管理・伝票の発給など総て出来るからと簡単に考えたからです。機種は鉄夫に選ばせて、東京から買い入れました。親子ともコンピュータのコの字も知らないので悪戦苦闘でした。現在の教育を受けた鉄夫は英語が少しは分かるので仕事の方はほったらかしで独学・学習しました。ハングアップの連続で夜遅くまで、時には朝まで掛かるようで、それが毎日続いたのではとても仕事どころでは有りません、私がバックアップに回り?金を稼ぐのは私、使うのは鉄夫というルールが出来上がりました。しかし先生(バイクトライアルの元全日本チャンピオンI君)には恵まれて2年後には使いこなせるように成りました。初代の機械が古くなって動きが悪いという事で私の手元に、鉄夫には“デル”のパソコンを入れました。かくして私も65才にしてパソコンのオーナーになりました。とは言っても戦中派の私にはローマ字のアルファベットも全部は知らないので、キーボードも打てません。打てませんどころか指が全く動かないのです。しかし“習うより慣れよ”というむかしからの諺どおり、最初は恐くて機械に触れられなかったのですが、毎日、朝・昼・晩と仕事の合間にパソコンの前に座ってキーを打っている内に、何とか遅いながらも10本の指を使って打ち込めるようになりました。私がパソコンを使おうと思ったのは、自分史を書きたかったからで、手で書けばこんなに苦しまなくても良いのですが、呆け防止にも良いからと自分に言い聞かせ、何事も挑戦と思いがんばっています。 引退、その後  1995年12月65才になったので鉄夫に代表者を譲ってからは今まで、どっぷり漬かっていた鉄の世界を見渡す余裕が出来ましたので、もっぱら鉄に関する本や古代のたたら製鉄の跡を見る機会が増えました。1996年4月29日には福井県今立郡金津町沢地内で1300年から1400年前?の、たたら跡を探して山中を歩きまわり、10キロ程のスラグを発見しました。これは福井県一帯が古代製鉄の遺跡が豊富にある証拠で、事実この時3個所ほど廻りましたが、3個所とものろや原料の砂鉄、それに高子小僧などが見付かりました。  この収集行には一寸した訳がありました。以前考古学をしておられて現在、今立郡今立町南中山小学校校長であるO先生が案内して下さったからでした。その時同行して下さった渡辺光一夫妻は、これまた今立町の文化財保護委員を勤められておられ、古代越前の製鉄を研究されておられる方でした。一見この奇妙な組み合わせですが、これは渡辺氏が主催されておられる福井県の(民映研の映画を観る会通称みみずくの会)が私の所属している(東海民映研の映画を観る会)とネットワークを結んだのがきっかけでした。  民族文化映像研究所、(略して民映研)所長である姫田忠義氏に率いられて、日本民族の遺産といえる民の文化や芸能、伝承されて来た技術を映像で後世に伝えるために活躍している集団です。この民映研で撮られた映像は、中には一般の劇場で公開されておる様ですが大部分は公開されておりません。各地の観る会が映画会を催して会員に映像を提供しているのです。今年3月1日から3日にかけて岐阜県の飛騨白川郷で民映研創立20周年記念セミナーを開いたのですが、その2年前から主催する民映研の映画を観る会ネットワークが準備会を各地で開いていたのです。第1回が1994年2月の大雪の中、今立町横住の渡辺先生宅で開催されたのでした。東海から(東海、民映研の映画を観る会)の主事である深谷勇次郎氏や私も含めて7名参加しました。これが縁で私が、その後何回もお邪魔したわけですが、今回は渡辺氏の要請で”たたら製鉄”に使う松炭を8袋南中山小学校へ運び、その足で金津町の山中を歩きまわったのでした。この松炭は南中山小学校のPTAやO校長が古代からこの地方に伝わった“たたら製鉄”を生徒と協力して実践しようと計画しており、原料の砂鉄は付近の山や川で調達出来ましたが、炭だけはどうしても調達する事が出来ず私の所へ話が来たわけです。これにも訳がありまして、深谷氏が勤めの傍ら自分で窯を作り炭を焼いておられるからです。私は小学生に“たたら製鉄”を体験させる、という計画に感動しましたので、深谷氏から炭を提供してもらい私が運搬役を務め渡辺氏宅迄で届けたのです。5月12日に小学校の校庭でたたらの予備実験をしてメーンの“たたら”を吹くのは夏休みの8月12日に決まりました。  当日は良い天気で暑い一日でしたが先生,生徒にPTAと全員で汗を流し”たたら”に取り組みました。夕方、予定の原料と燃料を使いきり直ちに炉を壊して出来上がっている玉鋼を取り出そうとしましたが玉鋼は有りませんでした。しかし、よく探してみると6〜7ミリぐらいの玉が随分(500gほど)有りましたので、一応は成功したと皆で喜び合いました。  民映研の映像の中には木に関する作品がたくさんありますが、鉄は鋳物ぐらいで製鉄はありません。この話が姫田所長に伝わりますと、学校が課外活動に”たたら”を取り入れるのは珍しいから、映像に撮ろうと申し入れが有り、11月23日に再度チャレンジする事に成りました。  最初に用立てた松炭も無くなったので、また深谷氏にお願いして8袋ほど用意して頂いて参加しましたが、当日は朝早くから深い霧に包まれており会場を見渡せる高台に立つと、東から西へと流れるのが良く分かりました。7時30分頃炉に火が点けられると流れるような霧の上に突然まんじゅうの様な膨らみが出来どんどん立ち上っていきました。これは炉の熱気によって上昇気流が出来て、霧が入道雲の様にわきあがったのです。このような自然現象?が見られたのは感激でした。  ”たたら”の映像は順調に収められて夕方には火を止め、すぐに炉を解体しましたが、結果は前回のより少し良い物が出来ました。前は玉だったのが今回は還元された砂鉄が玉からしずくに成ったのです。と言うのはしずくが大量に溜まって玉鋼は出来るからです。 民映研では、この映像を101本目の作品として発表するようです。  約4000年前にヒッタイト帝国で生まれといわれ、長い旅を続けて5世紀後半から6世紀にかけて古代日本にわたって来た鉄、最近国内の古墳から出土してくる、この時代の鉄製品特に鉄剣には今まで神話と受け取られた事柄が事実として浮かび上がってきました。製鉄は朝鮮半島から伝来したと見られるが、時代的にも鉄の産地であった百済・新羅が高句麗に攻められており新天地を求めて日本に技術が渡ったと思われます。  以来連綿と続いている鉄の文化の中に生活している私たち、特に鍛冶を職業にしている私にとって此れからは真剣に鉄に関わっていきたいと思います。姫田忠義氏、渡辺光一氏、共に激動の戦中戦後を頑張抜いた昭和一桁の気概を持った人です。私も同世代の人間として一生懸命がんばりたいと思います。 幻のピッケル  1995年、引退してから間もなく鉄に関して新たな展開が始まりました。9月頃私の所に一本の電話が入りました。相手は富山県新湊市の製鉄会社顧問という事でしたが、内容はピッケルに関しての事で電話にては詳しく説明出来ないので一度合って話しがしたいとの事でした。日時を決めて待っていますと私と同年輩の紳士で名古屋営業所の社員と一緒に来られました。名刺の交換をしてみますと、日本高周波鉱業KK富山製造所顧問・Aと有りました。話の内容は会社が創立60周年記念社史の編纂に当たって記録には載っているのに現物の無い物が有り、それがピッケルで戦後の混乱期の中、会社が戦時中にゼロ戦の脚注用に製造していた素材を利用して山内作をモデルに30本ほど作ったそうでしたが半世紀も経過すると、製作資料も売り先もはっきりしなくなりA氏が八方手を尽くして捜した所、W大学山岳会OBのメンバーが一振り持っている事が分かり、そのピッケルを借り受けて持参し何とか復元出来ないものかと相談に来られたわけでした。ゼロ戦の脚注用に作った鋼材、社内品番い234を使って是非作ってもらいたいとの事でした。仕事としては特注で単価も良いので、早速OKしました。そして鋼材の到着を待って製作を始めましたが、この“い234”と言う鋼材は会社の説明では砂鉄から作った玉鋼のようで、唯、製法が高電圧のプラズマ溶解で、社内では“いも鉄”と呼んでおり特許もあるそうです。低カーボン鋼ですので割合簡単に出来上がり納品しましたが、このピッケルは東京の本社に送られショーケースに飾られました。普通の仕事ではこれでお仕舞ですが話は意外な方向へ発展しました。  数ヶ月経ってA氏から、又相談したい事があるからお邪魔すると連絡があった時には何事だろうと思いました。数日後に氏が来豐されてお話を伺うと、会社が創立60周年を迎えるに当たって何か意義のある記念品を作りたいと選考中で、このピッケルが社長の目に留まったのでした。この復刻版ピッケルをモデルにして相当数製作し式典に出席するお得意様やお客様に贈ろうという事になったそうです。相当数では判りませんので、大体の事を聞きますと50本〜60本位との事でした。これは独りで仕事をしている私にとっては大変な数量で、年間50本ぐらいのペースで作っていますので、他の仕事を全くしなくても一年間かかります。しかも鉄夫はピッケルどころか、この時点ではコンピュータに掛かり切りで、ついにはアルバイトをする為にP・R・Sという組織を作ってしまいました。道は違いますが鉄夫にも一つのチャンスが訪れたのだと思いバックアップする事にしました。ピッケルの仕事は手伝ってくれるのか判りませんが、良い機会だと思いましたのでこの仕事を引き受ける事にしました。  1996年10月、記念ピッケルの構想がまとまり11月より製作を開始、毎月5〜6本のペースで製作、10月27日のメモリアル・デーに向けて張り切って仕事をしています。何しろ資本金3百億円以上の鉄鋼メーカーですが、私の使う素材(社内規格SMX70・KPS6・他に刃物鋼や純鉄など色々提供して頂ました)まで気を使ってもらいました。 あとがき “縁の糸”   “事実は小説よりも奇なり”と、よく言われます。 私が取り止めも無いような、この一文を書いている内にふと思いました。なにか赤い縁の糸で結ばれているような気がして仕方がありません。  生まれ育った少年期を鉋屑の中で過ごし、指し物大工への道を歩きだした私が、第2次世界大戦の影響で小学校5年から学徒動員に駆り出され配属された所がトヨタ自動車内の鍛造部門でした。この木と鉄の組み合わせが、総ての流れを決めたようです。  戦後になって刀鍛冶に弟子入りし4年間修行しましたが、昭和25年から自立して仕事をするようになり、自由になった時間でスキーを始めたのです。終戦直後の何も無い時で宿に泊まるにもお米が要り、戦前からスキーをしていたブルジョワでも行けなかった時代に、貧乏鍛冶屋が行ったのです。周囲の人からは散々笑われ貶されましたが、そのスキーに行ったお陰で内藤氏に出会い、片桐先生にも会えたのでした。しかも、その後内藤氏に「ピッケルを作ってくれ」と言われ三本ほど作ったのが、後年本格的に作る伏線になったのです。  故長谷川氏に付いても、当時ダブルアックスという登山技術によってピッケルが素材から構造に至るまで変わり、従来のピッケルだけを作り続けていた私にも、この技術に対応した作品を創り出す必要が有りました。登山用具界ではイギリス製等のメカニカルな製品が店頭に並んでいましたが、皆メタル・シャフトでした。私の作るダブルアックス用ピッケルはウッド・シャフトです。この場合軽量化に問題が有りまが何とかバランスを取る事が出来ました。K氏から注文の来た時には試作も終わっており絶妙なタイミングでダブルアックス作りに間に合いました。  1ヶ月後にはK氏のピッケルが出来上がり、私が上京しよういう前日に長谷川氏が電話をしてきたという事は偶然とは言えない何かが有ると思います。  こうして、私の今まで歩いてきた戦後の50年間を振り返ってみますと、如何に多くの人々に支えられて来たかと思います。また困難に出会ったときに必ずと言っていいほど良い人に巡り会っています。ピッケルの関係では、セピア色の写真にでてくる野沢温泉村の片桐匡氏、“ピッケルのカルテ”の著者鎌倉市大町在住黒田圭介氏、川崎市のU氏、日本発条KK名古屋工場長S氏、大同製鋼中央研究所鉄鋼材料研究室長O氏、同研究員N氏、池袋秀山荘店長A氏、故人になられた登山家の長谷川恒男氏、元日本山岳会理事O氏、エベレストで行方不明になったK氏、作家の新田次郎氏等々。又ナイフに於いても港区西麻布のY氏、M.Aの三氏等々。  福島県で事故に遭った時も、場所が県境でしたが、偶然わずかに近かった、と言っても救急車で50分走って新潟県立小出病院に運ばれ、この夜の当直医で応急処置を施し後日手術を担当して下さったN先生、この先生には後日談がありまして手術後一年を経過した平成3年8月26日、この年東京で開催された少飛20期生会終了後、予約も取らずに新潟へ行き小出病院で検査を受けましたが、結果は良好で体内に入れたプレートやボルトを取り出せる状態でした。  一年ぶりにナースセンターで話をしていると、N先生が大学病院に転出されるため最後の手術が明日と聞いては一大事、無理にお願いして予定に入れてもらいました。  家をでるときは2泊3日の予定でしたが、結局1週間の入院を入れて10日間掛かり抜糸がすむのを待って家に帰りました。先生のお蔭で今も元気に仕事が出来るのです。こうしてみますと数え切れない程、色々な人と、色々な場所で出会っています。私が今までに為し得たこの仕事も結局人と人との関わり合い、そして人の和だったと思います。   職人に定年はありません!   此れからも気力と体力の続く限りがんばり、山内東一郎氏に続きます。そして、われこそはピッケルを作ってやろうと言う人を待ちたいと思います。    完 二村善市