帝銀事件とその裁判事件 藤本 功 目次 1 平沢貞通は犯人では無い―帝銀事件は語る 2 最凶悪の公害である<帝銀裁判事件> 3 帝銀事件の深層を抉る   あとがき 1 平沢貞通は犯人では無い―帝銀事件は語る  戦後の混乱期の世相を象徴するものとして「帝銀事件」がある。ある面から言えば、「帝銀事件」の解決無しに<戦後は終わらない>とも言える。もっと突っ込んでみると、<戦後>どころか<戦中>だって終わらないのではなかろうか。  この帝銀事件の犯人とされている平沢貞通の死刑確定から、1985年5月7日に満30年を迎え、弁護団は時効が成立するとして即時釈放を求める初めての人身保護請求の訴えを東京地裁におこした。いっぽう、その身柄が極秘のうちに宮城刑務所から4月29日に八王子医療刑務所に移送され、東京地裁では審尋(人身保護裁判の準備調査)が開始、超党派の国会議員が「平沢貞通救援国会議員連盟」を結成―あわただしいこれらの動きのなかで、再び「帝銀事件」が注目を集めている。  この事件の最大の特徴は、キメ手がないということである。事件の規模の大きさに比べて、遺留品などの物証が極端に少ない。犯人が遺留した物証は「松井名刺」「山口名刺」、それに犠牲者・生存者の吐瀉物(としゃぶつ)から採取された毒物、それから犯行の翌日、盗んだ小切手を換金しに行った時、裏書きした架空の住所の筆跡、の都合、四点しかない。  殺人事件の場合は、普通、犯跡から犯行手口を分析して、犯人がどういう人物であるかを想定するというのが捜査の常道だが、こちらの方は生存者が四人いたので、犯行手口そのものが一部始終再現できた。銀行を舞台とした大量毒殺事件は、日本ではもちろん世界でも初めてであったから、すぐ<ホンワリ>に結びつけることはできなかったが、その反面、極めて特異な、限られた者だけがなしうる手口であることは当時明瞭であったわけだ。この辺のところをみてみよう。  犯人は、まだ混乱時代の昭和23年1月26日午後3時すぎ閉店直後の帝銀椎名町支店に現れて、「近所に赤痢が出て、その家の同居人が、今日ここへ来たことがわかった。あとから進駐軍が消毒に来るが、その前に赤痢の予防薬を飲んでおいてもらいたい。」と言って、銀行の全員を自分の周りに集め、120cc入り小児用薬ビンから中間が球状になっている駒込型ピペットを使ってまず自分に出された客用茶ワンに、次いで、お盆の上に集められた全員の茶ワンに、二回に分けて薬をついだ。この間、相当のスピードで手先も震えず、正確に同量に分けられた、と生存者が語っている。  男は、「この薬は大変強いので歯に触れるとホウロウ質を損傷しますから、舌を歯の前に出して、薬を包み、できるだけノドの奥に流し込むようにして一気に飲んで下さい。このようにして飲むのです。」というと薬を舌の奥にたらして、仰向いて一息に飲み込んだというのである。生存者のなかには、犯人の口元を見つめていたので、「絶対間違いなく飲みました」という人もおり、なかには「ノドがゴクッと鳴った」という人もいた。  ついで犯人は、左手内側にはめてあった腕時計に目をやりながら、「次に一分ぐらいして、このセコンドの薬を、中和剤として飲みます。これは普通の水のようにして飲まれてか まいません。」と言って、ブドウ色、六百ml入り、胴体にSECONDと書いた紙を張った小型の広口ビンを取り上げたところで、また「どうぞ」と声をかけ、ここで十六人は、同時に仰向いて、毒物をあおった。  時計を見ていた犯人は一分後に一人一人の茶ワンに第二薬を無造作に注ぐ。被害者は待ちきれないようにして、それを飲む。しかし、このころになると、「熱い」「苦しい」とうめく人も現れる。この間、犯人は椅子に落ち着き払って坐っている。  とうとう「胸が苦しい、水を飲んでもいいですか」と聞く者が出る。「どうぞ」と犯人は鷹揚にうなずいたという。そこで一斉に皆は洗面所やフロ場へ走り出す。この途中、あるいは水を飲む順番を待ちながら、人々は倒れていった。  以上が、だいたいの帝銀における犯行状況だが、誰でも初めのころは、16人が、どうして全員犯人にだまされて、一斉に薬を飲んだのかが不思議に思われたのである。そこで生き残りの人に聞きただした結果、犯人は現れたときから、いかにも医者のような雰囲気を持っていたし、薬を分ける道具もその分け方も、そして薬の飲み方の説明も、どこ一つとっても不思議なものはなく、そのうえ自分でも飲んでみせたのだから安心して従ったというのだ。  これは犯人の「名演技」というのでは甘すぎる。<地>そのものと見るべきであり、そのため一点のよどみもなく、全員がだまされたとみるのが自然だ。そして、もう一つ見逃せないのが、犯人の薬にたいする異常な自信と信頼である。銀行を襲うのに、わずか200cc入り小児用投薬ビン一本を持っての犯行であるから。  使用された青酸化合液の濃度は5〜10%で、一人に与えた量は約5ccである。これを青酸カリに換算すると、一人当たり0.2グラムから、0.5グラムとなる。青酸カリの致死量は0.3グラムだから、致死量スレスレである。被害者に与える刺激も最少の量ですみ、犯人としては最少の量で最大の効果をあげたわけだ。犯人のこの方面への造詣がいかに深いかがわかる。  次に、第一薬と第二薬という非凡な着想は、第二薬は単なる水であろうが、第一薬の完全な嚥下(えんか)が図れることで、第一薬の致死量スレスレの少量を補うことが出来る。そして、この間に1分間の時をもうける。この一分間は第一薬の薬効が発揮される時間だが、被害者とすれば、熱い、苦しいもちょっとの間で、1分たてば中和剤が飲めると、犯人の手元に全員が引き寄せられていて、外に飛び出す人間は出ない。断末魔の反撃を防げる大事な一分間なのだ。一分たてばもう大丈夫で外には出られない。そこで、洗面所へ行ってよろしいと許可をだしている。  ここで重要なことは、この1分と関係のある、犯行に使われた薬液はいったい何かと言うことだ。裁判では「市販の青酸カリを平沢がどこからか買って持っていて」となっているが、青酸カリは薬学上の通説でも、たいへん即効性が強く、飲むと一呼吸で倒れることになっている。それなのに1分間は誰も倒れていない。犯人は、それを計算にいれて、極めて重要な1分間を犯行計画の中に設定しているのである。これは通説に反する現象といわざるを得ない。致死量スレスレだからという説明では、それが性別、年令、体質などでそれぞれ違うのだから、1人ぐらい倒れても不自然ではない。ところが、誰も倒れていないのである。小使いの滝沢さんの長男、吉弘ちゃん(八つ)までが、大人と同じ量を飲んでやはり風呂場に行く途中までもちこたえている。  その後、おびただしい吐瀉物を分析し、東大と慶大で六体ずつ解剖し、また生存者から、味、刺激などを聞き取ったりした結果、青酸カリ化合物だとは分かったが、科学的にはついにそれ以上分からなかった。元読売新聞の竹内記者たちの取材のなかで浮かび上がってきたのは稲田登戸(川崎市)に戦時中あった陸軍第九研究所で、昭和16年にTという中佐が、アセトン・シアン・ヒドリンという薬を開発していた事実である。  この薬の特色は二つあり、一つは遅効性である。青酸カリは安くて効き目は強烈だが、即効性があまりにも激しい。そこで、大量毒殺とか集団自決などの軍用にはふさわしくない。そこで、これに1、2分の遅効性を与えるよう研究された。服毒すれば、胃に到達して胃酸と化合し、青酸ガスを発生するというのである。二つには、この薬は服毒した死体を解剖しても、青酸化合物ということだけで、それ以上は分からないというものだ。  さらに、昭和17(1942)年上海の「玉部隊」で、この薬を使って、捕虜を集団で殺しており、この殺し方が帝銀事件に酷似している。第一薬と第二薬を使って、その間に1分の<時>を設定している。しかも、軍医がみずから飲んでみせている。そして、これが二度行われていることまで明るみに出てきた。  犯人とされた画家の平沢は、薬物についてはまったくの知識もなく、いわんや取り扱いに習熟することなど出来もしない。アリバイも明白であった。おまけに、幸い命をとりとめた預金係の一女性は逮捕された平沢と二回<面通し>をしたが、「顔の輪郭と年齢が違うと思った。今でも犯人ではないと思っている」と証言している。  当時、事件の捜査はこの方面に向けられて、つづけられていたが、ある日突然向きを変更させられ、担当者は交替、独自に追求していた新聞記者たちも、この命令で取材活動を停止させられた。そして、このなかから平沢を犯人とする線でのくわだてと捜査に転換していったわけだ。  真実は、しかしいずれ明らかになる、というのが真理なのだが、帝銀事件も平沢の死刑確定から30年、93歳を迎える今日に至って光が射しはじめ、カラクリが明らかになりつつある。その一つにこのほど米公文書館で見つかった事件に関する連合国総司令部(GHQ)の機密文書がある。これを本年(1985年)3月8日と13日の「中部読売新聞」の記事から要約しておこう。  それによると、(1)犯人の毒殺手口が当時千葉県津田沼の軍秘密科学研究所が作った毒薬の取り扱いに関する指導書と一致、(2)犯行に使用した器具も軍秘密化学研究所で使っていた器具と同一、(3)23年3月中旬、GHQ報道教育課新聞出版班が七三一部隊に対する捜査の報道を差し止めた‥‥などが記載されている。初動捜査段階で警視庁が犯人について、戦時中、朝鮮半島に派遣された日本陸軍の毒殺担当要員か、七三一部隊員と見ていたことを示している。しかも、犯人が行員に毒物を飲ませる際、「FIRST DRUG」(第一の薬)、「SECOND DRUG」(第二の薬)と英語で指示しており、平沢は英語を話せない。   帝銀事件については、もうこれ以上の説明は不要であろう。現金・小切手などを含めて18万1千余円を奪って堂々と逃亡した真犯人を捕らえることは、今となっては不可能かも知れない。しかし、一番重要なことは、なぜ初動の線が180度転換されたのか、その責任はいったい誰が負うのか、ということである。  冤罪事件で無実が明らかにされた事例はいまあとを絶たない。帝銀事件はこれらとはまた違った側面を有している。弾圧事件と合成された冤罪事件だといわなければなるまい。「死刑の時効」についてどう考えるかなどの、いま散見する三百代言式意見はとるにたりない。大事なことは、いまだ曾て実現されたことのない責任者の処罰をここで果たすことである。 2 最凶悪の公害である<帝銀裁判事件>  帝銀事件とはもちろんつながりはあるが、それ自体が一つの独立したものをつくり上げているのが、奇怪な<帝銀裁判事件>である。正木ひろし弁護士は生前、「司法権力の不正と無能、無責任は、国民を絶望に導く最凶悪の公害である」と叫びつづけたが、これはそれにピッタリの内容を持っている。  まず、事件の捜査の過程から見ていこう。これに当たったのは警視庁である。警視総監の下に藤田刑事部長がおり、その下に帝銀事件の特命主任捜査官として成智警視がもっぱらこれに当たった。その成智氏にその間のことを語ってもらおう。それを要約する。 「注ぎ分けたピペットは、軍や細菌学研究所などの使っていた駒込型という特殊なもので、目盛りの無いそれで不透明な茶碗に入れるのだから、致死量を正確に入れたかどうかはなかなか判定しにくい。それを16人に正確に間違いなく短時間に注ぎ分けたというのは、よほど冷静な馴れきった専門家で熟練した人物でなければできない。普通の青酸カリは吐かないが、現場に吐瀉物があったということは、それではなく特殊なものであった証拠で、即死せずに中毒症状を起し、めまいを起し、吐いたりして徐々に死んでいったのである。  だいたい軍の謀略機関でやった手口と同じで、私が調べた特務機関の幹部もわれわれの仲間ならできると言っていた。また、大量の虐殺を最後まで冷静で正確にやれるのには、謀略工作に馴れきった、その上異常性格者でなければできない。その線上に浮かんできたのが、S中佐という石井部隊第一部にいた東大出身の優秀な医者だった。当時51歳で、身長五尺二、三寸、顔に黒点、面長、色蒼白、丸刈り頭髪白髪まじり、スマートな紳士風といった手配の人相、モンタージュ写真にぴったり符合した。しかも、麻薬中毒患者で異常性格であり、あのような殺人を平気で犯しかねない人物であり、ズバリ的確性をもっていただけでなく、七三一部隊で私が百人以上調べ上げたのだが、そのほとんどが『あの男が犯人だよ。調べてみたまえ。あの男以外にやれる人物はいない』と口を揃えて言った。これは重要な容疑者であり、私は関係警察の協力を得ながら陣頭に立って追跡したが、その途中で捜査は打ち切りになってしまった。警視庁の捜査というのはそんなもので、上で方針が出されればそれにあっさり従うほかないのである‥‥」。  これをこのほど米公文書館から見つかった「帝銀事件」に関するGHQ機密文書から照明を当ててみよう。1948年3月11日付GHQ治安局のメモには次のごとく書かれている。「捜査当局は、後の七三一部隊である千葉県津田沼の軍機密化学研究所と事件との関係について、同研究所に勤務、または雇われていた全員について捜査を行っているが、ここでは戦時中、青酸を含む毒物のし用法の実験が行われていた。この研究所で開発された毒物の使用法は兵士の教練用の冊子に記載されているが、犯人が用いた方法は、この冊子の要領と同じ。さらに犯人が使った薬品の容器も同研究所で使われたものと同じで、同研究所に捜査がのびている。‥‥」そして翌12日のメモでは「元七三一部隊員の関連を追及し元隊員の協力を得ているが、新聞記者の執拗な尾行に手を焼いており、記事を差し止めた‥‥」と書かれている。これはまた、当時の事件記者たち(例えば竹内理一元読売新聞社会部長等々)の話と符合する。結局読売新聞も危難を恐れて、事件の取材を中止せざるを得なかった。  凶悪犯人を検挙するための追及に「手を焼く」とはおかしなものだが、戦争中残忍きわまる細菌兵器を使って中国人民の多数を殺した弟七三一部隊(石井部隊)が戦犯として裁かれもせず、温存されていた事実こそ、「世にも不思議な物語」ではある。だがその謎は、朝鮮軍事博物館を覗くことでたちまち氷解する。朝鮮戦争中、灰の中にチフス菌やペスト菌を入れて北朝鮮の上空からばらまいたのが陳列されている。このへんに、初動の線が一八〇度転換されていく理由があろう。  成智元警視は「帝銀事件は全くの科学的犯行で、素人には絶対できないことです。このような科学的犯行のできるのは、毒物に知識の深い専門家、それも特殊技術者に限られているのですよ。警視庁もその捜査指令等に明確に指示したように専門の医者とか軍関係の者だけに主力をあげておったのです。今でもその事件の発生状況に変化があるわけはないのですから、この事実に変化が起こるわけはないのですよ。だから素人で画家である平沢氏などは、専門的に科学的に判断して犯人としての的確性が全くありません」と語っている。  ではその後の取り調べや裁判の中で、この肝心の問題点はどのように扱われたのだろうか。犯人としての能力、的確性の科学的検討はまるっきり行われていないのである。石井部隊員でなくてはできないし、平沢ではやれるはずがないと断言するその部隊関係者たちの意見を聞く機会をつくっただろうか。そうした証人たちを法廷に呼び、証言を聞くことなんぞただの一度だってやっていないのである。まるでそうすれば、せっかくの平沢犯人説が崩れ落ちると心配していたように見える。<犯人は平沢にしなければならぬ、それ急げ!>という鼓動が伝わってくるようだ。こんな奇怪なものを、取り調べだとか裁判だとか称するのは法治国家として恥ずかしい限りである。  まず、その「恥ずかしい取調べ」を、とくと取調べてみることにしよう。  取調べ調書は第一から第六十二まであるが、重要なのは最終の第六十一と第六十二である。平沢は逮捕されてから自供まで40日間も否認し続けている。そして、初めてこの検事調書で、私がやりましたという自供調書ができ上がったということになっている。これが有力な自白調書となり、有罪のキメ手となったのである。平沢が警視庁から小菅刑務所に送られてからの出張取調べであって、みんな私がやりましたということが書いてあり、右読み聞かせたら、相違なきことを認め、署名拇印したと書いてある。  ところがである、そのときの刑務所長である大井所長は、検事はもちろん事務官も来て調べたことはないと語っており、その旨の公文書も出されているのだ。念のため弁護人が看守をつとめていた酒井氏にたずねたところ、そんな人は来たことがないと返事している。また、常識からいって、移送されその日に取調べを行うなど考えられないことであり、おまけに25枚も調書をとるなんて、あり得べからざることなのである。検事はもしかしたら忍者もどきに忍び込んで、平沢を眠らせて自白調書をとり、拇印させたのだろうか。小説としてはこの方が面白いが、残念ながら法律的には無効である。  さらに面白いのは、別々に取調べて作成したというこれらの調書の拇印に白い輪が残されていて、あらかじめ調書を横に並べておいて、指をつかんで一度に次々と拇印させた後が歴然と残されていることだ。これらのことについてはその鑑定に間違ったことがないといわれる関西の大村博士に、高検が自ら依頼し、その結果、この調書は偽造だという鑑定報告書が提出されている。これはまずいと狼狽した検事側は、急いで奇怪な反対鑑定を作り上げ、裁判所に出し、瞞着したのである。  一般的にいって、自白調書だけで有罪にするくらい危険なものはない。おまけに平沢はコルサコフ病にかかっており、北海道からつれてきて、39日連続拘禁し、誘導、拷問の取り調べではたまったものでない。耐えかねて3回も自殺をはかっている。この自白調書の問題を、ベテランの成智元警視に聞いてみよう。 「そんなものは取調官の自由になるものです。例えば、素人には全然読めない独特の字を書く。そして、それを見せて、これでよいか、拇印を押せという。すると疲れきっている連中は、たいがい『はい、その通りです』と署名し拇印を押すものです。また、技術的に容疑者が言っていることと反対の調書をとるぐらい平気ですよ。これは一つの技術ですから。例えばあとで読み上げて聞かせて『これでよいな』という時に早口で読む。ありますというところをありませんと語尾をちょっと濁らせば、そのまま通ってしまう。利益になることは明瞭に、不利益となる点は濁してしまうのですよ。これは長年の経験で調書はついこうしてとってしまいたくなるものです。あまり取調べに苦労しますとね。だから、自白調書だけで死刑に持ち込んだ平沢の判決などは信用できないのですね。」  ついでに平沢が自白して犯人と確定したときの警視庁の模様も語ってもらっておこう。 「藤田捜査本部長は頭をかかえて、困った、困ったと言っていましたよ。その打ち上げの祝賀会があった時、私はいくつもりはありませんでしたが、『仕方がない、まあ顔だけは出しておけよ』と藤田部長が言うので、出席だけはしましたが‥‥。平沢が高木検事の手に渡ったとき『とにかく高木検事に会って今までのことを耳に入れておけよ』としきりに主張したのは藤田部長でした。私も検事が過ちを犯しては大変と会いに行きましたが、ケンもホロロの頭から拒否する態度で、とりあおうともしないのですね。大変若い、いわば大学出たての青臭い検事で、その未熟な青臭さから平沢がクロだという予断を抱いてしまったものではないですか。『こんな青臭い検事にこの大事件を調べさせるとは』実際にそう思いましたよ。後味の悪いスッキリしない事件ですよ‥‥」。  また、簡単に事実だけ羅列しておくと、犯行現場に残された茶碗についている指紋は平沢のものではない。つくられた調書をみると、平沢は午後3時10分前に池袋駅に着き、歩いて帝銀へ向かったことになっている。そして、生き残った女子行員の竹内正子(旧姓村田)さんの証言では、犯人は3時3分頃、通用門に入ってきたという。調書では通用門に到着するまでの道程が書かれているが、いろいろな伏線を机上で作り上げたために、犯人が通用門にこの時間に到着するのは誰がみても、いや歩いてみても、不可能なことは明瞭だ。  その時、平沢は娘のところに行き、タドンを袋一杯もらって帰り、娘のボーイフレンドと一緒に夕食を食べ、その時ラジオのニュースで帝銀事件の発生を知った。つまりアリバイがはっきりしているのである。  これはそれとして、注目すべきことは、殺人事件の解明には不可欠である凶器の確定とその入手経路すら明らかにされていないことだ。こんなずさんなことが裁判でまかり通り、しかも死刑を判決していることである。判っているのは、抽象的に青酸カリの類だというだけで、具体的にいかなる青酸カリかということも確定されず、そのため入手経路も不明のまま終わっている。高木元検事はこのことについて、最近のテレビ(1985年6月3日夜)で次のように言っている。「青酸カリは平沢の娘が外地から引き揚げる時持って帰ったもので、このことで娘を追及するのは平沢に気の毒だと思いそのままにした。こんなわけで青酸カリの入手経路は自白させてないのだ。」と。  そのことがあたかも平沢への温情らしく見せかけているが、こんなのを<ワニの涙>(相手を喰べるまえに涙を流す)というのである。いずれにせよ凶器と入手経路は不明のまま死刑判決が下されている。かつて八海事件のやり直し裁判で、相変わらずの有罪判決が出たとき佐々木哲蔵弁護団長(元裁判官)は、「こんなのは裁判ではない!」と叫んだが、帝銀事件はまさに裁判に値しないシロモノと言えるだろう。  一部の例外を除いて、裁判機構の内側では<司法一家>の意識がまかり通っている。裁判官は他の誰よりも「検事を愛す」のだ。現在の刑事訴訟法はまだ被告に不利益にできているが、裁判所ではそれをさらに被告人に不利益に解釈する。帝銀事件では私文書偽造の詐欺容疑で勾留し、それを検察官が39日間連続50回にわたり取調べている。ところが、最高裁は「右の取調べをもってただちに不利益な供述を強要したものと言うことは言えない」と言っているのである。普通の人間なら精神状態がそんな場合どうなるかぐらいは、すぐ判ることにもかかわらず。裁判の制度の改変の要求は、こんなところからも出てくるのである。誤判を防止するためには、被告人の立場に立ってものを考えられる裁判官の存在が不可欠だ。  検事がやらなければならなかったのは、まず吐瀉物の前に頭を下げて、「あなたのお名前とどこから来られたかを教えて下さい」と哀訴することではなかったのか。こんなていたらくの裁判の結果に対して、誰が死刑執行の印鑑が押せるものか。責めるべき相手は歴代の法務大臣ではなく、検察官と裁判官たちである。相手を間違えてはならない。  かくて1985年5月七日に死刑確定から30年を迎えた。刑法三一、三二条には「刑の時効」の規定があり、刑が確定してから一定期間執行されなければ免除すると決めている。死刑の場合は、この期間が30年とされる。平沢弁護団が「時効成立」として、即時釈放を求める初めての人身保護法にもとづく訴えを東京地裁に起したのは当然である。  これに対して5月30日、東京地裁藤田耕三裁判長は「刑の執行を前提とした拘置だから、時効とはならず釈放はあり得ない」と棄却した。そして、さらに付け加え、「時効の恩恵を受けるのは逃亡者に限られる」と言ってのけた。逃亡者は恩恵を受け、獄中にいる者は恩恵にあずかれない―これはいったいどういうことかと疑問を持たれ、かつ笑われた。  こんな茶番決定は予想されたことでもあり、驚くに値しないが、ここで正体をあらわにしたものが大事である。一つはいうまでもなく<司法一家>の根性が今なお現存し、脈々と流れている点である。先任の裁判官、検察官の下した決定は軽々しく覆してはならないとする不文律の伝統だ。二つにはそれを守るためにつくり出す三百代言である。これについては簡単に論断しておこう。  法務関係者や一部法学者たちは、平沢が再審請求をくり返し(17回)、その間、法務当局は慎重を期して死刑を執行しなかったために30年間たってしまったのだから、時効とはならない。これを認めると時効を阻止するために再審中でも刑の執行を急がざるを得なくなる、と強弁した。馬鹿も休み休み言い給え。刑訴法第四四二条には、再審の請求は刑の執行を停止する効力を有しないとあるではないか。つまり時効は進行するのである。しかし、そんなに時効の進行が怖ければ、それにつづいて、検察官は再審の請求についての裁判があるまで刑の執行を停止することができる、とある。そして、刑法第三三条で、時効はこれを停止したる期間内は進行せず、と規定しているではないか。  今時になって泣きごとを並べ、三百代言を繰り返すとは何事か。進行させないためには、執行を停止する措置だけ済んだのだ。それをやったのか?やっていない以上、法律に基づいて時効は完成しているわけで、一点の疑いもない。停止さえしておけば、平沢の時効は30年どころか、まだ2、3年しか進行していないことになる。平沢は時効は進行しないが、いつ呼び出されて殺されるかわからぬ恐怖から解放されて、この28年間ばかりを枕を高くして眠ることができたわけである。検察官はなぜそうしなかったのだろうか。再審請求を繰り返す不埒な死刑囚を絶えまなく死の恐怖におびえさせたかったのである。30年の時効の完成は、そのいたぶりの代償にほかならない。  弁護団は東京地裁の決定を受けるや、ただちに最高裁に特別抗告した。最高裁がいかなる三百代言を弄するか、待たれるところである。 時は移り、やがてこれらの検事や裁判官たちがようやく天国にたどりついたとき、そこに黒々と書かれた次の文字を眼にするであろう。  <娑婆で権力を悪用し、人間を危難に陥れた者たちは、これより先、入るをゆるさず> 3 帝銀事件の深層を抉る  帝銀事件の犯人が遺留した四点の物証のなかに、<名刺>がある。これは厚生省の係官を装うために使われたものであって、その限りでは犯人と直接の結びつきは無い。しかし、そこに浮かび上がってくるのは、犯人が厚生省の関係者とつね日頃つながりがあったということである。だからこのような名刺を日常的に手にすることが可能だったわけだ。  50年を経ていま現れてくる悪の伏流水を顕在化させるために、厚生省の創設にさかのぼってみる必要がある。その創設者は小泉親彦、当時の陸軍軍医総監で、3000人の生体実験と生体解剖で悪名を馳せた関東軍七三一部隊(正式名称は「関東軍防疫給水部」)の石井四郎軍医中将の直接上官であった。  日本での細菌戦研究の第一人者であった石井中将のもとで、七三一部隊を切り回していたのが軍医中佐の内籐良一である。当時彼の本拠は、石井中将が牛込の陸軍軍医学校内につくった「防疫研究室」で、事実上の指揮官をつとめていた。ハルビンにおかれた部隊から、支那派遣軍や南方派遣軍にも防疫給水部をつくって、細菌戦争の準備をすすめるうえで、アジアにまたがる本部がこの牛込の防疫研究室であった。  中国侵略のためのアヘンやモルヒネによる犯罪を計画した主犯の厚生省が、敗戦後いち早くその関係資料を始末したように、45年8月、七三一部隊は撤退命令を受けて、施設を爆破、収容していた人体実験用の中国人ら約400人をガスで殺した後、家族とともに引き揚げた。  その後、内藤良一軍医大佐は、精力的にGHQに働き掛け、七三一部隊の研究実験データーを差し出す代わりに、関係者全員を免責させるよう折衝した。このような恐るべき武器がソビエトに流れ出るのを極力食い止めたいと考えていたアメリカは、全員を戦犯から除外するのと引き替えに、根こそぎデーターを入手したのである。GHQ内では、このような「データーを入手するためにわれわれの出費は700ドルの端金にすぎなかった」と自慢げに語っている。たしかにその後の朝鮮戦争、ベトナム戦争‥‥と考えてみれば、それは「安い買い物」にすぎなかったのだが、日本国民の肩には重いツケが残された。  七三一部隊は、ハルビンの本部で行われた残虐な人体実験で知られているが、それは、細菌兵器を研究開発し、実用化するために設置された部隊であった。3000人を犠牲にした人体実験の目的も、細菌の効用を確かめることにあった。この部隊につづいて一六四四部隊が南京にも設置された。日中戦争のさなか、中国大陸の各地で細菌戦が展開されたのである。その被害者は、中国全土で約30万人に近いと推計されている。  これについて石井中将は、「細菌戦は経費が少なく、資源の乏しい日本に適している。鉄による砲撃は、その周囲の一定の対象しか消滅できず、負傷した者もすぐ回復する。しかし細菌は人から人へ、村から都市へと広がり、その害毒は人体深く浸透し、死亡率も高い‥‥」と豪語していたと言われる。現在、七三一部隊の人体実験にされた中国人の被害者遺族による裁判が審理中であるが、97年8月、細菌戦攻撃を受けた六地域の被害者とその遺族約百人が、日本国を相手取って損害賠償を求める裁判を東京地裁に起した。請求額は一人につき1000万円で、合計約10億円。細菌戦被害の訴訟はこれが初めてである。  六地域とは、「浙江細菌作戦」で標的にされた浙江省の崇山村、義鳥市、衢州市、寧波市、江山市と湖南省常徳市である。石井中将が自慢したその効力が遺憾なく発揮されたのがペスト菌投下だ。ペスト菌をそのまま空中から散布すれば、空気の抵抗や気温変化で死滅する。そこで石井が案出したのがペストノミだ。ペスト菌を注射したネズミにノミをたからせ、その血液を吸わせて感染させる。40〜42年頃、ペストノミ投下作戦がつづけられた。低空飛行で旋回し、麦粒や栗、トウモロコシをばらまいた。そのなかに大量のノミが交ざっていた。七三一部隊の井本熊男大佐の業務日誌に、「アワ3kg」を投下したと明記されているが、アワとは七三一部隊で使われたペストノミの符丁である。  ところで七三一部隊全員の免責をGHQと取引交渉した内藤良一は、その過程でGHQとも「親密」になり、その指示を受けて、朝鮮戦争勃発にさいし「日本ブラッド・バンク(血液銀行)」を設立、輸血用血液を調達し、それを負傷者続出の米軍に売ることで大いにもうけた。それが前身となり、かつての軍医仲間たちが集まって「ミドリ十字」を創設する。GHQの指示で、七三一部隊出身者がつくった会社だと言えなくもない。 こんな過程をへて出来上がったところだから、そこに倫理観などあろうはずは亡く、良心を欠落させて破廉恥な汚職など不思議ともしない「立派な伝統」が存在していた。だから非加熱製剤「クリスマシン」を売りつづけ、薬害エイズに二千人近く感染させて過失致死傷に至らせたのも自然の成り行きとみてよい。おまけに多くの人体実験をその手で実行してきた上級軍医たちは、免責されるやいなや、みんな過去を秘してそのことには口をつぐみ、医学・薬学界の重鎮に返り咲く。多くが厚生省をはじめ政府の要職、中でも国立予防衛生研究所には大勢がもぐり込み、また大学の教授、あるいは製薬メーカーへとポストを獲得したのであった。  元社長、前社長、現社長の3人が一度に逮捕されるという前代未聞の事件となったミドリ十字とは、どんな会社であったのか。元役員のひとりは次のように言っている。「うちはOBの私から見ても変な会社でね。学者崩れの研究員と、銀行から来て薬のことを何も知らない無能な幹部と、厚生省から天下ってきて判を押すだけの暇な幹部とが、それぞれ勝手に仕事しているところなんです。うちは、ひっきりなしに不祥事が起る会社ですが、それを役員クラスでも、新聞を読んで初めて知るのが普通なんです。」  このように、世間の常識では判らないまことに不可解なこの会社のなかで、帝銀事件の真犯人が社内にいるという噂が事件のあと広がったことがある。このことを追及していった週刊誌の記事を要約して紹介しておこう。ひときわ話題になった人物は、昭和30年頃の入社ですぐ学術分野の部長に就任、やがて取締役になり、常務を経て引退した男であった。顔が平沢貞通そっくりかといえば、それほど似ているわけではないが、むしろ、あんな12人を一度に毒殺するような事件は、この人でなければ出来ないだろうというようなニュアンスからの噂だったようだ。「彼は戦争中、毒物の研究をしていたんじゃないですか。旧帝大の医学部を出た優秀な予防医学の学者ですが、戦争中何をやっていたのかは社内でも知られていないのです」と社員が語っている。  その元常務は、帝銀事件が起った昭和23年には、事件現場の都内豊島区椎名町から西へ数キロの至近距離に住んでいて、その当時も、周囲から「帝銀事件の真犯人ではないか」と噂され、警察へ通報されたことがある。白髪混じりの顔の特徴はモンタージュ写真そっくりで、経歴は元陸軍軍医少佐、しかも防疫班に所属。家は現場に近く、土地勘は十分、というものだった。  ところが捜査員からマークされると、突然、伊豆方面で自殺し、文字どおり姿を消してしまったこと。少なくとも家族が近所にそう伝え、葬式まで出したという。それから間もなく、毒物の専門家ではない平沢貞通が逮捕され、自供を証拠に死刑の判決が下る。  が、驚いたのは、その知り合いだった人たちで、なんと姿を消してから20年も後に、本人がミドリ十字の役員として活躍していることを知ったからだ。そこで再び、「やはり、真犯人はあの人じゃなかったのか」という噂がしばらく囁かれたという。そしてミドリ十字社内でも、「やはり真犯人らしい」と噂されていたわけだ。  当時のミドリ十字には、毒物の専門家、細菌の専門家などが揃っていて、彼らは単に知識を詰め込んでいるだけでなく、実際に何分で死ぬかを試した経験を持っていた。警視庁にひそかに事情を聞かれた者は、この元常務のほかにも何人かいた筈であると、ミドリ十字関係者は語っている。毒殺事件でも起ろうものなら、容疑者にされかねない「人材」がゴロゴロいたということである。その伝統は今も生きていて、エイズ患者続出でも大した気にもしなかったのだろう。現に、「昔は血友病患者は20代でみな死んだ。いまはエイズになったといっても長生きできている。それはミドリ十字の功績だ」と胸をはるOB氏すらいるのである。  真犯人はあれではないかと追跡した記事はいくつも散見されるのであるが、それが平沢貞通に違いないと調べていったものは、ほとんど見られない。このことが示しているのは、平沢は真犯人ではあるまいとする空気が通常なのである。  それでは時が経ったこんにち、当時、威信をかけたところの検察・裁判所は、それをどう見ているのだろうか。ここに、元東京高検検事長だった藤永幸治(現帝京大教授)の講演記録がある。それは96(平成8)年12月9日の各紙に載った。それによると、「私が法務省にいた時も刑事局議で何度も記題になった。再審や恩赦の事由には当らないと判断したが、判決の事実認定に問題があったので、法務大臣への起案を次回送りにし、死刑の執行を停止していた」と語り、さらに「昭和20年代、30年代の捜査の手法に問題があったことは、元検事の私でさえ認める」と話している。  藤永幸治・元高検検事長は、そのあとでさらにくわしく書き、「なぜ死刑を執行しなかったのか」と題して、「新潮45」(97年2月号)に載せている。重要なところだけをつぎに引いておこう。  ―帝銀事件についても、判決に全く疑う余地がなく執行するについて問題がないのであれば、何故、38年間も執行しなかったのか、その理由を一般国民に、特に舘死刑廃止論者(事実上の死刑不執行を求めて運動を展開しているものも含めて)に説明しなければ、納得を得られないであろう。  全く問題がないのに、再審請求が18回、恩赦出願が5回と38年間のうち23回もの請求などが切れ目なく繰り返されていたからという理由だけで、局議にもかけず、小数の死刑担当者のみで「執行せず」という重大な決定をしていたということであれば、それこそ死刑廃止論者の恣意的判断で執行・不執行が決められているという主張に根拠を与えることになってしまうであろう。また、判決に疑念がなくとも、今後、切れ目なく再審請求などを繰り返せば(再審請求には、時期、回数とも制限はないから)、執行できないということになってしまってもよいとするのであろうか。  帝銀事件の犯人性に問題はないとしても、戦後間もない昭和23年当時といえば、警察は占領軍の命により、各市町村の自治体警察に分割され、また犯罪捜査の基本となる刑事訴訟法の改正が行われつつあった時代で、当時としてはやむを得なかったと思われるが、事実認定にかかわる、現在では考えられないような捜査手法上の問題があったことは否定できない。  例えば、犯人が行員ら16人に、一斉に飲ませた液体は、現場の各自の茶碗の底に僅かに残されており、東大の古畑種基博士は新しい青酸カリと鑑定し、一方慶應大の中舘久平博士は同じく青酸カリだが、古いものであると鑑定した。この原因は、僅かに残った液体を入れる容器さえなく、しかたなく目白署にあったガラス製の「醤油差し」に入れたが、洗浄が十分でなく、醤油の成分が付着していたため、鑑定を困難にしてしまったからである。  次に、当初は集団中毒発生と勘違いして救助活動に重点が置かれ、現場保存がないがしろにされた。そのため事件発生から2日目になって、やっと現金16万円余(現在の1600万円余)のほか、安田銀行板橋支店の小切手額面1万7450円(現在の170万円余)が奪われていることが判明し、同支店に急行したが、犯人は事件の翌日午後二時過ぎに現金化しており、逮捕の機を失してしまっている。  さらに、生き残りの4名の行員のうちの一人で、犯人と応対した吉田武次郎支店長代理が犯人から受け取った名刺は、机上に置いたままになっていたはずなのに、ドサクサで紛失し、古田の記憶では「厚生省 東京都衛生課 某」としかなく、この名刺が後になって平沢にたどりつくことになる当時厚生省に実在の「松井蔚」の名刺であったことが判明するのが遅れた。このため、この名刺は、松井博士が厚生省の駐在防疫官時代に宮城県庁地下の印刷所に注文して、昭和22年3月25日に受け取った百枚のうちの一枚で、同一犯人の未遂事件の安田銀行荏原支店で使用された同年10月14日までの約6ヶ月間に同博士から名刺を受け取った者かその周辺の者が犯人と結びつくという名刺班の捜査活動が遅れた。―  これらの記述から垣間見えてくるものがいくつかあるが、それを一言で評すれば、「問うに落ちず、語るに落ちる」の類だと言えるだろう。  さきに書いたように、高木元検事は「娘を追及するのは平沢に気の毒だと思いそのままにした。こんなわけで青酸カリの入手経路は自白させていないのだ」と言った。つまり一番大事な凶器とその入手経路が不明のまま死刑判決がくだされているのだ。藤永元高検検事長は、このところを巧くスリ抜けるために、「平沢の父性愛を諒として、あえて調書化しなかった」と、さらりと書いている。。これで落延びたつもりでいるのだろう。  このように父性愛を尊重するのだったら、39日間連続50回にわたる取り調べで、通常の人間ならどんな精神状態になるかぐらいは考慮すべきであった。彼らには、被疑者の立場に立って思いやる人権思想などは、ひとかけらも見られないのである。  ことに平沢氏は、30代のとき狂犬病予防注射の副作用でコルサコフ症候群にかかっていた。それは、作り話をしたり物忘れが激しかったり、相手の誘導にたやすく陥るなどが特徴の精神障害とされる。物証があやふやで、取り調べ時の自白が唯一の証拠だとなれば、その信頼性が焦点となるのは当然である。  平沢氏の精神鑑定を依頼された故内村祐之・東大教授らは、「異常性格が誇張されていたものの、平素の状態と大差ない精神状態だった」と結論づけた。この鑑定が死刑判決の決め手の一つになった。判決確定後、内村教授の直弟子にあたる白木博次・元東大医学部長が、この精神鑑定に異義を唱えた。「言動から見て脳障害は残っていたはずだ。解剖すれば、脳損傷が確認できる」と。  平沢氏は、約39年間の獄中生活に耐え、1987年5月10日、東京・八王子の医療刑務所で死去した。95歳であった。冤罪を叫びつづけるなか、あいまいなまま放置されてきた末の獄死であった。それはまさに<獄殺>と呼ぶに値しよう。獄死した平沢貞通氏の脳は、養子の平沢武彦さんら遺族が、冤罪を晴らす証拠として東大医学部に病理解剖を依頼していた。ところが、11年近くたっても東大側は結果を公表せずにきたが、遺族・弁護団・学者らの強い要請で、このほど(5月7日)脳と臓器が返還された。  第19次再審請求中の遺族・弁護団は、秋元波留夫・元東大医学部教授に新たな鑑定書を依頼、それと共に再審請求理由補充書を近く東京高裁に提出する予定である。「―内村鑑定は、精神医学的観点から見て誤っており、当時は脳障害の後遺症で供述能力が無く、自白調書の内容は虚偽で証拠能力は無い―」、といった内容のものになることが、真実解明のうえから期待されるところである。  再審裁判は一刻も早く開始さるべきであって、そうしなければ日本の司法制度は、暗黒の深淵から這い上がることは絶望だと言わなければならない。昭和38(1963)年2月28日、名古屋高裁の「吉田ガンクツ王事件」の再審裁判で、小林登一裁判長が「われわれの先輩が翁に対しておかした過去をひたすら陳謝する‥‥」と述べた<名判決>を思い起こし、平沢さんの霊に心から詫びるべきである。無実を叫びつづけて民難(平沢さんの言葉)と向き合った30年間の平沢さんの獄中闘争は、不滅の光を放つ抵抗史でもあった。  ここに至って初めて<帝銀裁判事件>は終結する。残るは<帝銀事件>そのものである。真犯人がだれであるかの追及は、事件捜査の初動の線が180度転換させられて以来、すでに長い年月が失われ、困難性を増してきている。これまでそれらしき者を探ってみたのは、事件が平沢とは無関係であることをあきらかにするためであった。それをやるのが言うまでもなく権力の仕事である。「平沢犯人説」にスリ変えることで、巧く迷宮入りさせることに成功したとほくそ笑んでいる輩も存在していることであろう。しかしいずれ必ず明らかにされるというのが歴史の真実である。歴史には時効が無いのだ。  この帝銀事件を前奏曲として、戦後の三大黒い霧事件が発生する。いずれも翌1949(昭和24)年のことである。まず下山事件(7・6)、ついで三鷹事件(7・15)、最後に松川事件(8・17)と展開する。国鉄の定員法発令による第一次・3万7千人(7・4)、第二次・6万3千人(7・12)の人員整理が巨大な陰謀の発端であった。現れかたにそれぞれ特殊性を帯びるのは当然であり、ことに三鷹事件は、明治生まれの硬骨である鈴木忠五裁判長と正義と義侠に富む竹内景助さんの存在が合わさって、事件を<空中楼閣>と断じ、辛うじて司法権の独立を守ったのである。  もしも二人の存在がなかったならば、不様な姿をさらけ出した松川事件の第一審裁判と同じ道筋を辿ったであろう。こうして占領軍が描いていたであろう筋書を狂わせることになった。50年近くたった今日、しだいに実相が明らかにされてきたのである。昨年5月28・29日の2回にわたって放映されたNHK「三鷹事件」の特集は、石島デイレクターの努力と相俟って、ほぼ全容に迫ることに成功していた。他の諸事件も、いずれ同様に解明されてくるのは間違い無い。  これら戦後史の幕開けとなっている帝銀事件も同断である。このことは深く考えなければならない。おわりに、冒頭に述べた言葉をもう一度書いておく。 <帝銀事件の解決無くして、戦中・戦後は終わらない>  あとがき  1と2は、もう10余年まえ、名古屋で出されていたユニークな雑誌・『伊勢湾共和国』に連載したものである。(1985年5〜7、第10・11号)そして3は、「平沢救援に散った人たち」と題して、磯部常治・神山茂夫・神近市子・赤松勇・森川哲郎さんたちの業績を偲んだものであった。ところが載せる直前に同誌が「冬眠」してしまったので、未発表におわった。それでこんど3だけを新たに書いてまとめることにした。発表したものにはあとで筆を加えない主義のため、全体としてなだらかさを欠くのは止むを得ない。  もう25年ぐらいも前になろうか、先達磯部常治弁護士、畏友森川哲郎さんと、銀座で会食しながら平沢画伯の救援について語り合った。まだ長くかかるだろうが、生きている者が運動をつづけていかなければならないと。この小册は、その<銀座の盟い>に沿ったささやかなものにすぎない。