Fujimae Booklet 2

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3 大阪南港野鳥園の例  

 大阪湾の干潟は日本でもっとも早く開発が進み、自然の干潟は100%消失した。
私たちが伊勢湾の干潟の埋立に対して声を上げた1970年ごろ、東京湾では千葉の干潟を守る会、大阪湾では南港の野鳥を守る会が活動中で、両者から教えと励ましをいただいた。当時の南港の運動は、すでに自然の干潟は失われた中で、渡来する渡り鳥を救うため埋立地の先端に野鳥園をつくれという、いわばゼロからの出発であったらしい。

 1968年から始まった運動は、多くの人々の長い幾多の努力を経て1983年の野鳥園の開園で実を結んだ。そして開園後も減りつづけた渡り鳥の渡来状況を改善しようと、海水を入れる干潟部分の拡大・改良を重ねられた結果、やっと1996年から小型のシギ・チドリの渡来が増えてきたという。 

 南港の野鳥を守る会は苦節17年、野鳥園の開園を得て1984年に活動の幕を閉じたが、先達のあとを引き継いで野鳥園に通いつづけ、その運営と改善に努力を続けているのが日本野鳥の会大阪支部の南港グループ96(代表 高田博氏)である。今回の調査は、高田さんの収集されている膨大な記録や調査データの一部を抜粋してまとめた。

 大阪湾が渡り鳥でにぎわっていた頃は、住吉浦というところがそのメッカであったらしい。そこに1940年ごろから軍用地として100haの埋立地がつくられたのちも、さらに1958年から929haの埋立が再開された当初も相当多くの鳥が渡来していたようだ。

 当時の定量的なデータが少ないのが残念だが、高田さんからいただいた「大阪湾にシギ・チドリの楽園を−大阪南港の野鳥を守る会の17年−」(1985.8.7同会発行)にある塩田猛さんの記述には「1965年当時ハマシギの4000-5000羽の群れがいた」とある。このことからも、大阪湾が東京湾・伊勢湾・有明海と並ぶ渡り鳥の一大渡来地であったことがうかがわれる。

 次ページの表は高田さんのまとめから、代表的な種についての渡来数の推移をみたものだが、埋立の進行によって鳥たちが激減した様子がわかる。ひとつだけグラフにしたハマシギは塩田さんの記録と併せてあるが、これが全体の様子を代表するものとしてよいだろう。この傾向は東京湾における推移と類似している。

 NGOと行政の協力で、埋立地の一角にともかくも野鳥の生息地が造られ、復元への努力を続けられている事は高く評価すべきだが、失われたものの大きさを厳粛にみる必要もある。

 東京湾でも伊勢湾でも、この南港の事例などを参考に失われた自然環境の復元を図っていくことは必要である。しかしそれは現在かろうじて残されている三番瀬や藤前の自然を保全しての上であることはいうまでもない。

 

 

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