2. 外的要因による個体数の変動
図6,は、D300地点における、アナジャコの推定個体数と、実数(調査結果)を表したものである。破線で示されたものが、前述した生存曲線である。ただし、実際には春秋の渡りのシーズンには、この推測値よりも捕食により死亡率が大きくなると思われる。
この地点(D300)での調査結果や、図3.4等の結果から考えられることは、1998年の8月末〜9月初旬にかけて、藤前干潟西部で、底生生物が激減したこと、および、1999年6月下旬、さらに同年8月末に、底生生物が激減したらしいことが、アナジャコ類の巣穴数の変化からうかがえる。このことは、調査結果だけでなく、観察会での観察の場面でも確認できるものであった。
・1998年4月から、大型個体が捕獲される割合が減った。
・1998年8月の個体捕獲の後に行われた、9月の観察会では、干潟西側(D300付近)では全くといってよいほどアナジャコが捕獲できなかった。
・いつもなら、干潟を人が歩くと驚いて飛び出してくるアナジャコの新規個体があまり見られない。
・1998年の繁殖期以降、抱卵個体が1個体も捕獲されない。
(小嶌私信) |
このときの底生生物の大量死により、1998年の9月から10月にかけては、干潟西側の底生生物の巣穴はほとんどが塞がり、干潟の西側一帯が一時的にヘドロ化してしまった。
幸い、この時のダメージは、ヨコエビ、ゴカイ、スナモグリ、アナジャコという順に、周辺から移動してきた生物達により少しずつ恢復に向かい、約半年後には、アナジャコの巣穴数で、80個/平方m程にまで増加した。我々は、突発的に起こった生物量の減少と、それに伴う被害、さらに、そこからの自然の回復力の強さに驚いたものである。
さて、1998年夏期の生物量の激減の原因は何であろうか、ということが、当時の「守る会」底生生物調査班の話題であった。確かに夏期の高温状態は、干潟の生物にとっては、厳しい条件であるし、そのために死亡する個体も無いわけではない。しかし、この年の底生生物の減少の仕方は、そうしたものとは違い、はるかに規模が大きいと言えた。
当初は、日光川水門の開放により、いわゆる「死に水」が、大量に藤前干潟に流れ込んだのではないか、あるいは、新川からの工場廃水によるものではないか、等の憶測がされたわけであるが、確認のために行なった調査では、干潟の西側、正確には、干潟の低位部分(藤前干潟は、西に向かって地盤高が低下する)が集中的に被害を受けていることがわかった。
最終的には、まえがきにもあったように、どうもこの大量死は、藤前干潟西側にある、浚渫泥を採取した跡、通称「深み」で発生している貧酸素水塊が、干潟表面に移動したために起こったのではないか、という結論に達した。
これが、「1998年は大変でした。」で済まなくなったのは、翌1999年夏期にも底生生物が激減するという事態に至ったからである。
この年は、前年のダメージから完全に回復していないところに、もう一度貧酸素水塊が上昇したため、ただでさえ減っていた個体数がさらに減少し、以後、2000年に入った現在もあまり芳しい状態ではない。
このような要因により、底生生物が減少する場合、力の弱い幼生や、卵が捕食されるのと違い、いわゆる「親」の世代までダメージを受けるため、次代への影響が非常に大きくなるのが難点である。
一般に甲殻類は、数年の寿命があり、一匹の個体が、一生の間に2度、3度と繁殖活動に参加する。これは、天候や海流などの変化によって、卵や幼生が壊滅的な打撃を受けても、成体が生き残っていれば、次の繁殖期にもう一度増殖の機会が得られるからである。しかし、貧酸素水塊のように、卵、幼生、成体の区別なくダメージを受けた場合は、その世代だけでなく、次代にまで影響が及ぶ。場合によっては、個体数が回復不可能な状態にまで追い込まれる可能性がある。
底生生物の激減は、単にその生物種の生物量の問題では済まない。摂食量の減少による浄化能力の低下や、生物の死亡により、巣穴による干潟深部への酸素の供給が不足すれば、潟土内部は還元的(嫌気的)な環境となり、分解者(特に好気性細菌)の有機物分解速度や棲息場所が減少する。結果として流入する有機物が分解されずに残り、ヘドロ化が進むことになる。
このように、一度バランスが崩れると、環境の悪化は加速度的に進むことになる。こうして次代の底生生物は、より棲息、繁殖に不利な状態を余儀なくされてゆくのである。
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