Booklet 04 P.12

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なぜ死刑を執行しなかったのか
現在では考えられないような捜査手法上の問題

 

 

 それでは時が経ったこんにち、当時、威信をかけたところの検察・裁判所は、それをどう見ているのだろうか。ここに、元東京高検検事長だった藤永幸治(現帝京大教授)の講演記録がある。それは96(平成8)年12月9日の各紙に載った。それによると、「私が法務省にいた時も刑事局議で何度も記題になった。再審や恩赦の事由には当らないと判断したが、判決の事実認定に問題があったので、法務大臣への起案を次回送りにし、死刑の執行を停止していた」と語り、さらに「昭和20年代、30年代の捜査の手法に問題があったことは、元検事の私でさえ認める」と話している。

 藤永幸治・元高検検事長は、そのあとでさらにくわしく書き、「なぜ死刑を執行しなかったのか」と題して、「新潮45」(97年2月号)に載せている。重要なところだけをつぎに引いておこう。

 ―帝銀事件についても、判決に全く疑う余地がなく執行するについて問題がないのであれば、何故、38年間も執行しなかったのか、その理由を一般国民に、特に舘死刑廃止論者(事実上の死刑不執行を求めて運動を展開しているものも含めて)に説明しなければ、納得を得られないであろう。

 全く問題がないのに、再審請求が18回、恩赦出願が5回と38年間のうち23回もの請求などが切れ目なく繰り返されていたからという理由だけで、局議にもかけず、小数の死刑担当者のみで「執行せず」という重大な決定をしていたということであれば、それこそ死刑廃止論者の恣意的判断で執行・不執行が決められているという主張に根拠を与えることになってしまうであろう。また、判決に疑念がなくとも、今後、切れ目なく再審請求などを繰り返せば(再審請求には、時期、回数とも制限はないから)、執行できないということになってしまってもよいとするのであろうか。

 帝銀事件の犯人性に問題はないとしても、戦後間もない昭和23年当時といえば、警察は占領軍の命により、各市町村の自治体警察に分割され、また犯罪捜査の基本となる刑事訴訟法の改正が行われつつあった時代で、当時としてはやむを得なかったと思われるが、事実認定にかかわる、現在では考えられないような捜査手法上の問題があったことは否定できない。

 例えば、犯人が行員ら16人に、一斉に飲ませた液体は、現場の各自の茶碗の底に僅かに残されており、東大の古畑種基博士は新しい青酸カリと鑑定し、一方慶應大の中舘久平博士は同じく青酸カリだが、古いものであると鑑定した。この原因は、僅かに残った液体を入れる容器さえなく、しかたなく目白署にあったガラス製の「醤油差し」に入れたが、洗浄が十分でなく、醤油の成分が付着していたため、鑑定を困難にしてしまったからである。

 次に、当初は集団中毒発生と勘違いして救助活動に重点が置かれ、現場保存がないがしろにされた。そのため事件発生から2日目になって、やっと現金16万円余(現在の1600万円余)のほか、安田銀行板橋支店の小切手額面1万7450円(現在の170万円余)が奪われていることが判明し、同支店に急行したが、犯人は事件の翌日午後二時過ぎに現金化しており、逮捕の機を失してしまっている。

 さらに、生き残りの4名の行員のうちの一人で、犯人と応対した吉田武次郎支店長代理が犯人から受け取った名刺は、机上に置いたままになっていたはずなのに、ドサクサで紛失し、古田の記憶では「厚生省 東京都衛生課 某」としかなく、この名刺が後になって平沢にたどりつくことになる当時厚生省に実在の「松井蔚」の名刺であったことが判明するのが遅れた。このため、この名刺は、松井博士が厚生省の駐在防疫官時代に宮城県庁地下の印刷所に注文して、昭和22年3月25日に受け取った百枚のうちの一枚で、同一犯人の未遂事件の安田銀行荏原支店で使用された同年10月14日までの約6ヶ月間に同博士から名刺を受け取った者かその周辺の者が犯人と結びつくという名刺班の捜査活動が遅れた。―

 

 

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