Booklet 04 P.9

Page
9

厚生省の創設にさかのぼると現れてくる悪の伏流水
日本国民の肩には重いツケが残された

 

3 帝銀事件の深層を抉る  

 

 帝銀事件の犯人が遺留した四点の物証のなかに、<名刺>がある。これは厚生省の係官を装うために使われたものであって、その限りでは犯人と直接の結びつきは無い。しかし、そこに浮かび上がってくるのは、犯人が厚生省の関係者とつね日頃つながりがあったということである。だからこのような名刺を日常的に手にすることが可能だったわけだ。

 50年を経ていま現れてくる悪の伏流水を顕在化させるために、厚生省の創設にさかのぼってみる必要がある。その創設者は小泉親彦、当時の陸軍軍医総監で、3000人の生体実験と生体解剖で悪名を馳せた関東軍七三一部隊(正式名称は「関東軍防疫給水部」)の石井四郎軍医中将の直接上官であった。

 日本での細菌戦研究の第一人者であった石井中将のもとで、七三一部隊を切り回していたのが軍医中佐の内籐良一である。当時彼の本拠は、石井中将が牛込の陸軍軍医学校内につくった「防疫研究室」で、事実上の指揮官をつとめていた。ハルビンにおかれた部隊から、支那派遣軍や南方派遣軍にも防疫給水部をつくって、細菌戦争の準備をすすめるうえで、アジアにまたがる本部がこの牛込の防疫研究室であった。

 中国侵略のためのアヘンやモルヒネによる犯罪を計画した主犯の厚生省が、敗戦後いち早くその関係資料を始末したように、45年8月、七三一部隊は撤退命令を受けて、施設を爆破、収容していた人体実験用の中国人ら約400人をガスで殺した後、家族とともに引き揚げた。

 その後、内藤良一軍医大佐は、精力的にGHQに働き掛け、七三一部隊の研究実験データーを差し出す代わりに、関係者全員を免責させるよう折衝した。このような恐るべき武器がソビエトに流れ出るのを極力食い止めたいと考えていたアメリカは、全員を戦犯から除外するのと引き替えに、根こそぎデーターを入手したのである。GHQ内では、このような「データーを入手するためにわれわれの出費は700ドルの端金にすぎなかった」と自慢げに語っている。たしかにその後の朝鮮戦争、ベトナム戦争‥‥と考えてみれば、それは「安い買い物」にすぎなかったのだが、日本国民の肩には重いツケが残された。

 

 

前のページへ▲▼次のページへ

目次/2/3/4/5/6/7/8/9/10/11/12/13/14/15

 

● 表紙に戻る
● 目次に戻る

 ライブラリー TOP
 電子出版のご案内