犯人とされた画家の平沢は、薬物についてはまったくの知識もなく、いわんや取り扱いに習熟することなど出来もしない。アリバイも明白であった。おまけに、幸い命をとりとめた預金係の一女性は逮捕された平沢と二回<面通し>をしたが、「顔の輪郭と年齢が違うと思った。今でも犯人ではないと思っている」と証言している。
当時、事件の捜査はこの方面に向けられて、つづけられていたが、ある日突然向きを変更させられ、担当者は交替、独自に追求していた新聞記者たちも、この命令で取材活動を停止させられた。そして、このなかから平沢を犯人とする線でのくわだてと捜査に転換していったわけだ。
真実は、しかしいずれ明らかになる、というのが真理なのだが、帝銀事件も平沢の死刑確定から30年、93歳を迎える今日に至って光が射しはじめ、カラクリが明らかになりつつある。その一つにこのほど米公文書館で見つかった事件に関する連合国総司令部(GHQ)の機密文書がある。これを本年(1985年)3月8日と13日の「中部読売新聞」の記事から要約しておこう。
それによると、(1)犯人の毒殺手口が当時千葉県津田沼の軍秘密科学研究所が作った毒薬の取り扱いに関する指導書と一致、(2)犯行に使用した器具も軍秘密化学研究所で使っていた器具と同一、(3)23年3月中旬、GHQ報道教育課新聞出版班が七三一部隊に対する捜査の報道を差し止めた‥‥などが記載されている。初動捜査段階で警視庁が犯人について、戦時中、朝鮮半島に派遣された日本陸軍の毒殺担当要員か、七三一部隊員と見ていたことを示している。しかも、犯人が行員に毒物を飲ませる際、「FIRST DRUG」(第一の薬)、「SECOND DRUG」(第二の薬)と英語で指示しており、平沢は英語を話せない。
帝銀事件については、もうこれ以上の説明は不要であろう。現金・小切手などを含めて18万1千余円を奪って堂々と逃亡した真犯人を捕らえることは、今となっては不可能かも知れない。しかし、一番重要なことは、なぜ初動の線が180度転換されたのか、その責任はいったい誰が負うのか、ということである。
冤罪事件で無実が明らかにされた事例はいまあとを絶たない。帝銀事件はこれらとはまた違った側面を有している。弾圧事件と合成された冤罪事件だといわなければなるまい。「死刑の時効」についてどう考えるかなどの、いま散見する三百代言式意見はとるにたりない。大事なことは、いまだ曾て実現されたことのない責任者の処罰をここで果たすことである。
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