Booklet 04 P.2

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「帝銀事件」の解決無しに<戦後は終わらない>
極めて特異な、限られた者だけがなしうる犯行


作品1

 

1 平沢貞通は犯人では無い
      ―帝銀事件は語る
 

 

 戦後の混乱期の世相を象徴するものとして「帝銀事件」がある。ある面から言えば、「帝銀事件」の解決無しに<戦後は終わらない>とも言える。もっと突っ込んでみると、<戦後>どころか<戦中>だって終わらないのではなかろうか。

 この帝銀事件の犯人とされている平沢貞通の死刑確定から、1985年5月7日に満30年を迎え、弁護団は時効が成立するとして即時釈放を求める初めての人身保護請求の訴えを東京地裁におこした。いっぽう、その身柄が極秘のうちに宮城刑務所から4月29日に八王子医療刑務所に移送され、東京地裁では審尋(人身保護裁判の準備調査)が開始、超党派の国会議員が「平沢貞通救援国会議員連盟」を結成―あわただしいこれらの動きのなかで、再び「帝銀事件」が注目を集めている。

 この事件の最大の特徴は、キメ手がないということである。事件の規模の大きさに比べて、遺留品などの物証が極端に少ない。犯人が遺留した物証は「松井名刺」「山口名刺」、それに犠牲者・生存者の吐瀉物(としゃぶつ)から採取された毒物、それから犯行の翌日、盗んだ小切手を換金しに行った時、裏書きした架空の住所の筆跡、の都合、四点しかない。

 殺人事件の場合は、普通、犯跡から犯行手口を分析して、犯人がどういう人物であるかを想定するというのが捜査の常道だが、こちらの方は生存者が四人いたので、犯行手口そのものが一部始終再現できた。銀行を舞台とした大量毒殺事件は、日本ではもちろん世界でも初めてであったから、すぐ<ホンワリ>に結びつけることはできなかったが、その反面、極めて特異な、限られた者だけがなしうる手口であることは当時明瞭であったわけだ。この辺のところをみてみよう。

 犯人は、まだ混乱時代の昭和23年1月26日午後3時すぎ閉店直後の帝銀椎名町支店に現れて、「近所に赤痢が出て、その家の同居人が、今日ここへ来たことがわかった。あとから進駐軍が消毒に来るが、その前に赤痢の予防薬を飲んでおいてもらいたい。」と言って、銀行の全員を自分の周りに集め、120cc入り小児用薬ビンから中間が球状になっている駒込型ピペットを使ってまず自分に出された客用茶ワンに、次いで、お盆の上に集められた全員の茶ワンに、二回に分けて薬をついだ。この間、相当のスピードで手先も震えず、正確に同量に分けられた、と生存者が語っている。

 男は、「この薬は大変強いので歯に触れるとホウロウ質を損傷しますから、舌を歯の前に出して、薬を包み、できるだけノドの奥に流し込むようにして一気に飲んで下さい。このようにして飲むのです。」というと薬を舌の奥にたらして、仰向いて一息に飲み込んだというのである。生存者のなかには、犯人の口元を見つめていたので、「絶対間違いなく飲みました」という人もおり、なかには「ノドがゴクッと鳴った」という人もいた。

 ついで犯人は、左手内側にはめてあった腕時計に目をやりながら、「次に一分ぐらいして、このセコンドの薬を、中和剤として飲みます。これは普通の水のようにして飲まれてか
まいません。」と言って、ブドウ色、六百ml入り、胴体にSECONDと書いた紙を張った小型の広口ビンを取り上げたところで、また「どうぞ」と声をかけ、ここで十六人は、同時に仰向いて、毒物をあおった。

 時計を見ていた犯人は一分後に一人一人の茶ワンに第二薬を無造作に注ぐ。被害者は待ちきれないようにして、それを飲む。しかし、このころになると、「熱い」「苦しい」とうめく人も現れる。この間、犯人は椅子に落ち着き払って坐っている。

 とうとう「胸が苦しい、水を飲んでもいいですか」と聞く者が出る。「どうぞ」と犯人は鷹揚にうなずいたという。そこで一斉に皆は洗面所やフロ場へ走り出す。この途中、あるいは水を飲む順番を待ちながら、人々は倒れていった。

 

 

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