これらの記述から垣間見えてくるものがいくつかあるが、それを一言で評すれば、「問うに落ちず、語るに落ちる」の類だと言えるだろう。
さきに書いたように、高木元検事は「娘を追及するのは平沢に気の毒だと思いそのままにした。こんなわけで青酸カリの入手経路は自白させていないのだ」と言った。つまり一番大事な凶器とその入手経路が不明のまま死刑判決がくだされているのだ。藤永元高検検事長は、このところを巧くスリ抜けるために、「平沢の父性愛を諒として、あえて調書化しなかった」と、さらりと書いている。。これで落延びたつもりでいるのだろう。
このように父性愛を尊重するのだったら、39日間連続50回にわたる取り調べで、通常の人間ならどんな精神状態になるかぐらいは考慮すべきであった。彼らには、被疑者の立場に立って思いやる人権思想などは、ひとかけらも見られないのである。
ことに平沢氏は、30代のとき狂犬病予防注射の副作用でコルサコフ症候群にかかっていた。それは、作り話をしたり物忘れが激しかったり、相手の誘導にたやすく陥るなどが特徴の精神障害とされる。物証があやふやで、取り調べ時の自白が唯一の証拠だとなれば、その信頼性が焦点となるのは当然である。
平沢氏の精神鑑定を依頼された故内村祐之・東大教授らは、「異常性格が誇張されていたものの、平素の状態と大差ない精神状態だった」と結論づけた。この鑑定が死刑判決の決め手の一つになった。判決確定後、内村教授の直弟子にあたる白木博次・元東大医学部長が、この精神鑑定に異義を唱えた。「言動から見て脳障害は残っていたはずだ。解剖すれば、脳損傷が確認できる」と。
平沢氏は、約39年間の獄中生活に耐え、1987年5月10日、東京・八王子の医療刑務所で死去した。95歳であった。冤罪を叫びつづけるなか、あいまいなまま放置されてきた末の獄死であった。それはまさに<獄殺>と呼ぶに値しよう。獄死した平沢貞通氏の脳は、養子の平沢武彦さんら遺族が、冤罪を晴らす証拠として東大医学部に病理解剖を依頼していた。ところが、11年近くたっても東大側は結果を公表せずにきたが、遺族・弁護団・学者らの強い要請で、このほど(5月7日)脳と臓器が返還された。
第19次再審請求中の遺族・弁護団は、秋元波留夫・元東大医学部教授に新たな鑑定書を依頼、それと共に再審請求理由補充書を近く東京高裁に提出する予定である。「―内村鑑定は、精神医学的観点から見て誤っており、当時は脳障害の後遺症で供述能力が無く、自白調書の内容は虚偽で証拠能力は無い―」、といった内容のものになることが、真実解明のうえから期待されるところである。
再審裁判は一刻も早く開始さるべきであって、そうしなければ日本の司法制度は、暗黒の深淵から這い上がることは絶望だと言わなければならない。昭和38(1963)年2月28日、名古屋高裁の「吉田ガンクツ王事件」の再審裁判で、小林登一裁判長が「われわれの先輩が翁に対しておかした過去をひたすら陳謝する‥‥」と述べた<名判決>を思い起こし、平沢さんの霊に心から詫びるべきである。無実を叫びつづけて民難(平沢さんの言葉)と向き合った30年間の平沢さんの獄中闘争は、不滅の光を放つ抵抗史でもあった。
ここに至って初めて<帝銀裁判事件>は終結する。残るは<帝銀事件>そのものである。真犯人がだれであるかの追及は、事件捜査の初動の線が180度転換させられて以来、すでに長い年月が失われ、困難性を増してきている。これまでそれらしき者を探ってみたのは、事件が平沢とは無関係であることをあきらかにするためであった。それをやるのが言うまでもなく権力の仕事である。「平沢犯人説」にスリ変えることで、巧く迷宮入りさせることに成功したとほくそ笑んでいる輩も存在していることであろう。しかしいずれ必ず明らかにされるというのが歴史の真実である。歴史には時効が無いのだ。
この帝銀事件を前奏曲として、戦後の三大黒い霧事件が発生する。いずれも翌1949(昭和24)年のことである。まず下山事件(7・6)、ついで三鷹事件(7・15)、最後に松川事件(8・17)と展開する。国鉄の定員法発令による第一次・3万7千人(7・4)、第二次・6万3千人(7・12)の人員整理が巨大な陰謀の発端であった。現れかたにそれぞれ特殊性を帯びるのは当然であり、ことに三鷹事件は、明治生まれの硬骨である鈴木忠五裁判長と正義と義侠に富む竹内景助さんの存在が合わさって、事件を<空中楼閣>と断じ、辛うじて司法権の独立を守ったのである。
もしも二人の存在がなかったならば、不様な姿をさらけ出した松川事件の第一審裁判と同じ道筋を辿ったであろう。こうして占領軍が描いていたであろう筋書を狂わせることになった。50年近くたった今日、しだいに実相が明らかにされてきたのである。昨年5月28・29日の2回にわたって放映されたNHK「三鷹事件」の特集は、石島デイレクターの努力と相俟って、ほぼ全容に迫ることに成功していた。他の諸事件も、いずれ同様に解明されてくるのは間違い無い。
これら戦後史の幕開けとなっている帝銀事件も同断である。このことは深く考えなければならない。おわりに、冒頭に述べた言葉をもう一度書いておく。
<帝銀事件の解決無くして、戦中・戦後は終わらない>
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