帝銀事件とはもちろんつながりはあるが、それ自体が一つの独立したものをつくり上げているのが、奇怪な<帝銀裁判事件>である。正木ひろし弁護士は生前、「司法権力の不正と無能、無責任は、国民を絶望に導く最凶悪の公害である」と叫びつづけたが、これはそれにピッタリの内容を持っている。
まず、事件の捜査の過程から見ていこう。これに当たったのは警視庁である。警視総監の下に藤田刑事部長がおり、その下に帝銀事件の特命主任捜査官として成智警視がもっぱらこれに当たった。その成智氏にその間のことを語ってもらおう。それを要約する。
「注ぎ分けたピペットは、軍や細菌学研究所などの使っていた駒込型という特殊なもので、目盛りの無いそれで不透明な茶碗に入れるのだから、致死量を正確に入れたかどうかはなかなか判定しにくい。それを16人に正確に間違いなく短時間に注ぎ分けたというのは、よほど冷静な馴れきった専門家で熟練した人物でなければできない。普通の青酸カリは吐かないが、現場に吐瀉物があったということは、それではなく特殊なものであった証拠で、即死せずに中毒症状を起し、めまいを起し、吐いたりして徐々に死んでいったのである。
だいたい軍の謀略機関でやった手口と同じで、私が調べた特務機関の幹部もわれわれの仲間ならできると言っていた。また、大量の虐殺を最後まで冷静で正確にやれるのには、謀略工作に馴れきった、その上異常性格者でなければできない。その線上に浮かんできたのが、S中佐という石井部隊第一部にいた東大出身の優秀な医者だった。当時51歳で、身長五尺二、三寸、顔に黒点、面長、色蒼白、丸刈り頭髪白髪まじり、スマートな紳士風といった手配の人相、モンタージュ写真にぴったり符合した。しかも、麻薬中毒患者で異常性格であり、あのような殺人を平気で犯しかねない人物であり、ズバリ的確性をもっていただけでなく、七三一部隊で私が百人以上調べ上げたのだが、そのほとんどが『あの男が犯人だよ。調べてみたまえ。あの男以外にやれる人物はいない』と口を揃えて言った。これは重要な容疑者であり、私は関係警察の協力を得ながら陣頭に立って追跡したが、その途中で捜査は打ち切りになってしまった。警視庁の捜査というのはそんなもので、上で方針が出されればそれにあっさり従うほかないのである‥‥」。
これをこのほど米公文書館から見つかった「帝銀事件」に関するGHQ機密文書から照明を当ててみよう。1948年3月11日付GHQ治安局のメモには次のごとく書かれている。「捜査当局は、後の七三一部隊である千葉県津田沼の軍機密化学研究所と事件との関係について、同研究所に勤務、または雇われていた全員について捜査を行っているが、ここでは戦時中、青酸を含む毒物のし用法の実験が行われていた。この研究所で開発された毒物の使用法は兵士の教練用の冊子に記載されているが、犯人が用いた方法は、この冊子の要領と同じ。さらに犯人が使った薬品の容器も同研究所で使われたものと同じで、同研究所に捜査がのびている。‥‥」そして翌12日のメモでは「元七三一部隊員の関連を追及し元隊員の協力を得ているが、新聞記者の執拗な尾行に手を焼いており、記事を差し止めた‥‥」と書かれている。これはまた、当時の事件記者たち(例えば竹内理一元読売新聞社会部長等々)の話と符合する。結局読売新聞も危難を恐れて、事件の取材を中止せざるを得なかった。
凶悪犯人を検挙するための追及に「手を焼く」とはおかしなものだが、戦争中残忍きわまる細菌兵器を使って中国人民の多数を殺した弟七三一部隊(石井部隊)が戦犯として裁かれもせず、温存されていた事実こそ、「世にも不思議な物語」ではある。だがその謎は、朝鮮軍事博物館を覗くことでたちまち氷解する。朝鮮戦争中、灰の中にチフス菌やペスト菌を入れて北朝鮮の上空からばらまいたのが陳列されている。このへんに、初動の線が一八〇度転換されていく理由があろう。
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