読んでわかるように、ある国家集団が体現している文明に発展力があることの証拠として、その集団が外部へと支配権力を拡張する衝動とエネルギーがあることがあげられている。したがって、武力を行使して国外へ進出する行為は文明の発展にとって必然であり、それを正邪善悪の道徳的判断によって批判してはならない。むしろ、権力拡張への意思が世界制覇をめざすレベルにまで達しているかどうかが問題であり、その意識の発展度によって「近代」に到達しているかどうかが判定できる。その意味では秀吉の朝鮮侵攻は、日本人の意識が「近代」に到達したことを示す画期的出来事であり、失敗したからといって悪事を行ったと非難すべきではない。
『国民の歴史』を貫いているこうした歴史観は、民族間、国家間のエゴイズムの衝突が歴史を貫く必然であり、その必然を冷徹に認識して、軍事力経済力を軸とした集合力を自己中心的に発展させることが重要であるとする歴史観、権力強化を至上命題とする史観である。日本列島独自文明圏論は、そうした国家権力の強化を正当化するために用意されているものであり、私には「万邦無比の国体」論の新装改訂版に思える。
天皇を「現人神」とあがめることも、日本文明に固有の神観念に基づく伝統文化としてまるごと肯定される。天皇を「現人神」とするのは、人間とカミとの間が不連続でない日本のカミ観念に由来する万葉以来の表現であり、近代になっていまさらのように神格化が始まったわけではない。その誤解を解くには、「日本の神々の世界の多彩なる姿を、日本人であれば到るところで生活のまわりに見つづけてきたその伝統を素直な気持ちで顧みて、天皇もまたそうした流れの中の一つであったにすぎないという、ごく素朴な常識にたちかえることが必要で」、その素朴な常識に立てば「天皇は最初から神であり、今も神なのである」(同、401ページ)。まさに神道思想に基づく「国体」論の再編成というべきである。
このような歴史観は、「戦争」を歴史の必然とする論理を当然にも含む。「人間が生物であるかぎり、自分のエゴを守ろうとするのは本性であり、言論が尽き果てたときに、暴力によって決着をつけるという古代からの人間性に根ざした紛争処理の知恵は、『自然法』によって守られている」というのがその立場である。戦争は集団と集団のエゴイズムの衝突であって、戦争に正邪、善悪といった「余計な道徳」を持ちこむべきではない。戦争は政治の一部であって、その政治目的に照らして、成功か否か、賢いか愚かかを問うことができるだけである。戦争は人間の本性に属しているなにかであるから常に起こりうる。常に「戦争の用意をすることによって、その手段で政治が実行されるという現実的な戦略思想は忘れられてはならない」(同、447ー8ページ)。
平和時を戦争が背後で継続されている状態としてとらえ、平和時にこそ次の戦争に対応する準備体制を構築しなければならないのである。
戦争は決して忌避すべきことではなく、二つの決定的な正義が対立したときに、どちらが正義かを決める「最も人間的な方法」(同、473ページ)である。現代は核戦争を恐れるあまり、暴力によってどちらが正しいかを決める手段を封じられてしまった。そのため、人類が、解決できない新しい野蛮を抱え込んで身動きできなくなった状態にある。
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