一節でふれた田原総一朗の戦後史に関する見解と西尾幹二の『国民の歴史』とは、正邪善悪の倫理的判断によらずに利害損得の判断に立って歴史を評価せよ、という認識で一致する。また、国民国家システムの許での国際社会は、自国中心のエゴイズムが衝突と妥協を繰り返す闘技場であるから、そのパワーゲームを勝ち抜く腕力と交渉技術がなにより重要であるというイデオロギーにおいても合流するであろう。
西尾の思想は、対米戦争を始める前の日本で支配的だった欧米対アジアの対立構造についての言論をほぼそっくり受け継いでいる内容である。白人による有色人種差別、アジアの自衛と欧米の支配からの脱却、その盟主としての日本、大東亜共栄圏構想が持っていた進歩的で文明的な意義などが引き継がれ、肯定されている。とりわけ不快なのは、人種・民族差別思想を復活させ、日本文明を全肯定する裏返しとして、欧米文明に対する不信と怨恨と復讐の感情、中国や南北朝鮮に対するあからさまな蔑視を煽動している点である。
こういう言説が教科書化されるならば、自己利害の一方的追求が他者にどのような影響を及ぼすかについて配慮し、共生の道を探る方向ではなく、個人的にも集団的にも損か得かだけを考え正邪善悪を顧みる必要はないという方向、いまは個人の思想傾向にとどまっているその傾向を、日本「国民」にとっての利益をなりふり構わず追求する国益中心主義に合流させ、地域紛争への軍事的介入という形態での参戦国家化をめざすことが「国益」に合致することだという世論を盛り上げる役割を果たすことになろう。
米国は、近未来の地域紛争が朝鮮と中近東で起こる可能性に対処する「二正面戦略」を立てているという。日本国はその「戦略」に内属しつつ、参戦を通じていわゆる「先進」諸国内での権力的地位を拡大強化することを「国策」とすべきだというイデオロギーが、「大国」としての国際社会への責任を大義名分に、現に盛んに訴えられている。今日のナショナリズムは、そうした「国策」を、自己の利益に合致する方針として支持する「国民」を育てようとしている。
このような思潮に対して、今日の社会を生きる諸個人のコモンセンス(日常の思考と行為の枠組み)としてどのような哲学が自覚されるべきであろうか。
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