1999年は、日本現代史にとって時代を画する年であった。急速に台頭してきた新たな国家主義が政治を動かし、国家構造変革への歩みが加速された年といえるからである。新しい国家主義は、1990年代に、湾岸戦争に際しての国際貢献論議、カンボジアPKOへの自衛隊派兵、冷戦後北東アジアの安全保障についての論議などを通じて次第にその主張をのばした。とくに、いわゆる従軍「慰安婦」として性奴隷化されたアジア諸国の女性たちから日本国家の未済の戦争責任が告発され、彼女たちへの謝罪と賠償が政治問題となるや、性奴隷化への国家の関与を否認し、告発に反撃するナショナリズムの主張が、デマゴギーと低劣なレトリックを伴って急激に強まった。そして1999年は、日米ガイドライン関連法、国旗国家法などの法律が制定され、「国際紛争の解決の手段としての戦争」ができる国家、すなわち現日本国憲法の基本原理を事実上否定する国家体制への道が踏み固められたことによって特別な年となった。
1999年の末に、私は沖縄島北部東海岸にある名護市辺野古集落を訪れた。ここは、普天間町にある米軍海兵隊基地の県内移転候補地とされているところで、キャンプ・シュワブという海兵隊基地に隣接している。沖縄島北部は山原と呼ばれているが、なかでも東海岸は低い丘陵と森が海に迫り、平地は少ない。小さい入江の浜辺に点々と集落がある。辺野古では「へリポート建設阻止協議会 命を守る会」本部が置かれている浜辺の小屋をたずね、会の相談役と「ジュゴンの会」代表を兼ねる嘉陽宗義さんにお話をうかがうことができた。
嘉陽さんはたしか87歳と聞いたが、眼光炯々、語勢鋭く語る内容は、確固とした自前の思想に満ちていた。私たちの反対運動は、先祖代々おかげをこうむってきた海を尊んで守り、子々孫々に引き継ぐ真心に発するものである。祖先と子孫に恥じないよう務めを果たしたいという願いから出ている。したがって私たちの反対運動は、あくまでも礼儀正しく、道理を貫く文明的な手段によるのであり、賛成する立場を非難したり憎んだりするのではない、という趣旨であった。
私は、嘉陽さんのこの話を聞きながら、伊江島で反戦平和の思想家、実践者として生涯を貫いている阿波根昌鴻さんの思想と共通する哲学を身につけた人がここにも生きている、という感動を覚えた。
阿波根昌鴻さんは、1954年に米軍に土地を奪われたときにつくった「陳情規定」を、手作りの反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」に掲げている。そこには、「会談のときには必ず座ること」、「耳より上に手をあげないこと」、「大きな声を出さず、静かに話すこと」、「ウソ偽りを絶対に語らないこと」、「道理を通して訴えること」、「人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が米軍に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること」が定められている(阿波根昌鴻著『命こそ宝─沖縄反戦の心』、岩波新書、1992年、参照)。
この非暴力抵抗の思想は、読んでわかるように、自他の人格的尊厳を重んじつつ真理と正義を貫くという倫理的立場を基本においている。
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