この本を終わりまで読んでみておどろいたことは、どこにも希望の光が見られず、暗い不安と絶望だけが語られていることである。終章「人は自由に耐えられるか」では、日本列島の文明の底に働く霊的なパワーを説く前半とは打って代わって、現代がやがて来る没落をなすすべなく待っている時代であるというメッセージがのべられている。人々は、自由の過剰がもたらす不安と空虚感にさいなまれ、生きることへの退屈にまとわりつかれており、「未来には輝かしいものはなにもない」という。
神や仏を信じることができた時代はすでに過去となっており、「この長い歴史をめぐる物語は、ついにそれらを信じることができない時代に立ち至った、人間の悲劇の前で立ち尽くしている自覚を持って、閉じなければならないのは遺憾である」(同、767ページ)というペシミズムに沈み、構文ももつれた文章で、全巻が終わる。
巻を閉じて、じつはこの思想の虚無を埋めるものが、日本列島「文明圏」論の神話であることが見えてくる。結論的にいうと、天孫降臨の神国日本の神話を、超個人的な民族パワーを信仰するオカルト宗教的神話として復活させているのである。そして、この神話と「国難」の脅しによって、国家主義への翼賛を調達しようとしているのである。
20世紀前半の日本が、植民地とアジア地域での覇権獲得のための戦争をくり返したあげく迎えた敗戦を深く反省し、その過ちをくり返さないためにそれまでとは原理的構造的に異なる国家と国民のあり方を模索し、実質化しようとしてきた歴史─それが最初から不徹底であり、体系としての一貫性を欠いていたために徐々に巻き返されているにしても─を全否定し、その時代を跳び越して過去との連続性をつけようとした『国民の歴史』論が、そのようなメッセ−ジで終わっていることは、別の意味で深刻な問題をはらんでいる。なぜなら、人間のためのよりよい社会への希望は持てないという虚無意識を基盤とした権力肯定のイデオロギーは、やがてそれを批判する意見を禁止し、総力戦へと国民を駆り立てる全体主義の温床となるであろうからである。
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