真か偽か、正か邪かの判断を捨てて、損か得かに判断の軸を置いたことを「大正解」とする根拠は、近い過去50年に日本国家と日本社会が獲得した富と繁栄に求められている。富と繁栄を唯一の基準として、敗戦後50年の日本国の政策選択を全肯定するのは完全に内向きの自己肯定であり、自己讃美である。この考え方に立てば、日本本土在住国民が沖縄の地域と住民に過大な犠牲を押しつけつつ安寧をかちえてきたことも、朝鮮戦争、ベトナム戦争をつうじて「繁栄」を享受してきたことも、「大正解」の中に入ることになろう。しかし私には、それらは恥ずべきことであり、「正解」などとはとても思えない。
正か邪か、いいかえれば正義か不正義かの判断を損か得かの利害衡量の判断に吸収させてしまうのであれば、あらためて問われている「戦争責任」と、戦後それを放置してきた「戦後責任」についての論議、アジア太平洋戦争中のアジア諸地域の民間人や戦時捕虜に対する数々の人権侵害に対する「責任」論はどうなるであろうか。被害者側の求める「責任」を加害者側が受けとめるためには、両者の「正義」についての判断が一致しなければならない。その合意が得られなければ、相互の言い分はすれ違いに終わるだろう。私は、日本国家を被告として、強制連行、強制労働、性奴隷化などの謝罪と賠償を求めて提起された数々の裁判に、日本国家が、国家を越える正義と人権の規範があることを認めて応答しないことに憤慨し、苛立ってきた。日本国民以外の諸個人の戦争被害に対して、日本国家が責任を認めて具体的な措置を講じないという事実は、戦後日本国家が、国家の行為を判定するより高次の正義の規範を否認する力によって支配されてきたという田原総一朗の認識を、その裏面から証明している。
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