(3)教育は「国家の権利・子どもの義務」
さて、このような観点に立って日本の教育の現状を見るならば、「統治行為としての教育が目覚ましい成功」を見せたが故に、それがサービスとしての教育分野まで取り込んでしまい、「強制とサービスの境界がほとんど見失われた段階」にあることや、教育内容があまりにも均質化しすぎて、ポスト工業社会にふさわしい「先駆的人材が他の先進国に比べて育ちにくい」状況が生じていることに警鐘を鳴らす。
そして、統治行為とサービスとが混淆されているため、「一方で学校にあるべき権威と権能を与えず、サービスから市場的競争を排除」してしまい、「現在の学校においては教える側にも学ぶ側にも、進んでそれに従事するという動機と意欲が低下」し、「結果として授業内容についていけない子どもには過大な負担を与え、それを消化してより広く好奇心を満たしたい生徒には足踏みを強いる」として批判する。
さらに、その弊害として「子どもたちが教育を国民の義務として理解し、それに畏敬の念を持つことを忘れかけて」おり、「義務教育はサービスではなく、納税と同じ若き国民の義務であるという観念を復活しない限り、教師の自信も回復されず、昨今さまざまに憂慮される教室の混乱が起こるのも当然」であると言う。
このように、「子どもの権利としての教育=国家・社会の義務として子どもの教育権を保障する」という義務教育理念(実体はともあれ、今のところタテマエとしてはそうなっている)は、「統治行為としての義務教育=国家の権利・子どもの義務としての教育」へと、180度転換させられる。
(4)「義務教育3日制」にひそむ子どもの選別
その上でより具体的には、「現在の義務教育の教科内容を5分の3までに圧縮し、義務教育3日制」とし、「週7日のうちの半分以上、すなわち少年期の半分以上を、生徒と親の自由選択、自己責任に委ねて見よう」と提案する。マスコミが、教育の自由化や子どもの負担軽減、多様性の尊重といった、好意的文脈で報道したのはこの部分であると思われるが、そこには極めて重大な前提条件がある。
すなわち、「5分の3までに削減した教科内容は、国民が国民として身につけるべき最低限度の義務であるから、これを達成できない生徒には別途の援助を与える必要がある」とする。国家が課す「義務教育」をクリアできる子どもとできない子どもを選別した上で、「週3日」をクリアした子どもにはより高度の、あるいは専門的な分野の学習や体験に向かうことを保障し、この分野は「教育クーポン」の支給といった、利用する生徒一人ひとりの判断に委ねるシステム、教育への市場原理の導入を提言する。
最後に、「精選された義務教育の内容」については、「民族的、文化的に中立性の強いものが望ましい」としながらも、「法と制度を厳正に維持し、社会の秩序と安全を保障し、世界化する市場に適切な補正を加える国家の重要性は自明であり、生徒に対してそれを敬愛することを教えるのは義務教育の範囲の中にある」と付け加えることを忘れない。
この報告が目指す教育改革路線を一言でまとめるならば、「国家の枠組みが許容する範囲での個性や多様性の尊重」、というよりは「個性や多様性の尊重をうたわなければ通用しない時代になったが故に、国家の枠組みを締め直す路線」と言うことができるであろう。
それでは、このような義務教育の解体・再編を目指す動きに対し、私たちはどのように立ち向かい、どのような教育改革の対案を提起したらよいのであろうか。
|