親たちの不安について
函館では、登校拒否と教育を考える親の会「アカシヤ会」が7年前から活動をしており、私たち夫婦も参加させてもらっており、この会で多くのことを学び、大変に励まされた。会では毎月例会を開いて、経験を語り合ったり、情報交換などを行っているが、登校拒否をめぐる親の不安については、次のようなことが数多く話題にのぼる。
1 学力が遅れ進学できないのではないか。
2 学校に行かないと社会性や適応力が
身につかないのではないか。
3 学校くらい我慢できないと世の中に
通用しないのではないか。
4 何もしないでゴロゴロしていると
無気力人間になるのではないか。
5 学校に行かないのなら、
せめて◯◯をしてほしい…。
6 学校とどのように関わったらいいだろうか。
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学校に行かないわが子を毎日目の前にすると、親がこのような不安を持つのは当然かもしれないが、「親の会」での話し合いなどを通じて、私は次のように考えるようになった。
【1について】
そもそも「学力」とはなんだろうか?「より良い」進学のために高い点数を取ることなら、そんなに意味あることとは思えない。大切なのは「生きる智恵・力」ではないだろうか。それならば、今の学校以外にも、それを獲得する様々な場やルートがあると思う。
【2について】
「学校」だけが社会性を身につけるところなのだろうか。現在の学校システムや秩序に「適応」できることが、それほど意味のあることだとは思えないし、現在の学校という「時間と空間」に「合わない」子どもがいても不思議ではない。学校以外で自分らしさを発揮できる子どもがいてもいいし、現に、わが家の娘たちはそうであったと思う。
【3について】
必要な「がまん」もあれば、無意味な(場合によっては有害な)「がまん」もある。確かに、学校もひとつの組織・機構であるから、一定の秩序やルールが必要だし、その限りでは「がまん」する事を覚えるのは大切であろう。問題は、具体的にどのような秩序やルールが求められているのか、それが子どもにとってどのような意味があるのか、ということであり、その検証抜きに、がまん強さを求めるのは大人の傲慢なのではなかろうか。
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