(3)学校をもっと「身軽」にする取り組みを
また、学校という場を通らなければ子どもは一人前に成長できないと言う思いこみや、「学歴」へのこだわりが現実の社会には根強くあるために、子どもが学校に行かずに、家庭や学校以外の場で成長するという選択が、学校にも親にもなかなか受けいれられない。分科会の中で登校拒否を体験したの若者が、「なぜ今の学校という枠の中でしか解決を考えられないのか」と発言していたが、核心をついていると思う。
しかし、「学校を通らなくても子どもは成長する」ことを子どもと家族、学校が認め合い、「学校に行くのも選択肢のひとつ」というように考えることができれば、学校に背負わされた過重な役割を見直し、整理していくことも可能となるであろう。このことは、現在の管理的・抑圧的な学校システムを、より住み心地の良いものに変えていく道にもつながる。
学校の側からも、登校拒否の問題などをひとつの手がかりとして、学校が担うべき役割、家庭が責任を持つべき役割、地域がサポートすべき役割などについて、率直に、ホンネで語ってほしいのである。例えば、放課後や夏・冬休みの規則など果たして学校が決めるべきことなのか、生活指導や部活などは本当に必要なことなのか、100%合格を「保障」しようとする進路指導は必要なのか等々について、議論すべき時期に来ているのではなかろうか。
これらが無くなれば教職員の負担は随分と軽減されるであろうから、労働条件を改善するという、労働組合にとっても本来の課題と合致する。おそらく学校現場からは、「一般論としてそのように言えても、父母や地域からの要求があるのでそうはいかない」という声が聞こえて来そうである。
しかしこのことは、単に労働組合のエゴなのではなく、現在の学校システムのあり方を根本から問うことなのであり、それ故自信を持ってこのような主張を展開するためには、自らの教育理念や学校のあり方についての見識を持つことが要求される。「現場の苦労も知らないで」と反発されることを百も承知で言わせていただくならば、「忙しい、忙しい」と言いながら現状を抱え込み続けることよりも、現状を変えようとする努力の方がはるか厳しく、しかも今求められていることなのではなかろうか。
(4)「納税者の反乱」をしっかり受けとめよう
私はまた、教育改革については、「情報公開・説明責任・政策評価」という、行政改革とも共通するアプローチが必要であると考えている。というのは、私は北海道庁の職員であり、地方分権と住民参加の行政を本気になって推進するためには、全ての地方自治体は上記の3点セットをクリアすることが課題ではないか、という問題意識を持つからである。
1995年、道庁を根底から揺るがす「不正経理問題」が発覚し、これを契機に不正を追及する動きは全国の自治体へと波及していった。これは、役所の事務処理の誤りを正すといったレベルを超えて、自治体の構造や仕事のあり方、職員の意識そのものを問い直すこととなり、戦後の地方自治制度が発足して以来、自治体に対する最大規模の「納税者」の反乱であったと考える。納税者として、自分たちの税金が適正に使われているのかどうかを、市民が主体となって全国的規模で同時多発的に追求したというのは、おそらく初めてのことであろう。
当初、私は事の重大さ、深刻さを十分に自覚しておらず、「ほとぼりが冷めるのを待つ」程度の意識であったが、そのような対応が許される事態ではないことがだんだんと明らかになってきた。私は末端の一職員に過ぎないが、何かをしなければと考え、97年に市民や市町村職員も含めた道庁内外の有志とともに、「未来セミナー」という自主研究グループを立ち上げ、「分権時代の道庁のあり方を考える」をテーマに、公開フォーラムや勉強会を開催してきた。本論から外れるのでこれ以上はふれないが、私がこのことを通じて学んだ最大の教訓は「道庁の常識、世間の非常識」ということであり、道庁の改革には「情報公開・説明責任・政策評価」のシステムが不可欠である、ということであった。
しかし、今度は農業土木工事を巡る談合・割付疑惑で公正取引委員会の摘発を受けたのみならず、つい先日、建設部長が業者選定を巡る贈収賄容疑で逮捕されるという衝撃的な事件が続き、公共事業をめぐる腐敗構造が表面化している。これまでの改革プログラムの意義が帳消しになりそうな事態に、私は道職員の一人として消え入りたい気持ちであり、虚しさすら感じているが、改革路線の歩みを止めるわけにはいかない。前述の「3点セット」だけでは役所の病巣を根治できないことも明らかになっているが、それすらやりきれないようでは話にならない。巨大組織の隅々にまで改革方針が徹底することの難しさを自覚しつつ、この改革の方向性を愚直にまで追求することが、今こそ必要なのだと考えている。
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