(4)チャータースクールなどを手がかりに
いずれにしろ、「黙っていてもお客が来る」ことに安住して成長・発展した事業は、歴史的に唯のひとつも無い。義務教育がその最後の領域となっていることを学校自らが自覚し、それへの安住を断ち切る努力をしないかぎり、この「構想」には到底太刀打ちできないであろう。
そこで私は、教育改革の基本的方向を次のように提起したい。「構想」の表現を借りるならば、現在の義務教育を「5分の3の強制と5分の2の選択」に分けるのではなく、「5分の5の全てを選択にせよ」と! このことは別に目新しい主張ではなく、アメリカやヨーロッパで急速に広まっている「チャータースクール」や「ホームエデュケーション」がまさにこれにあたる。
昨年、アカシヤ会では、アメリカ・ミネソタ州のチャータースクールを視察してきた函館出身の民主党衆議院議員・金田誠一氏を招いて学習会を開催したが、このシステムから学ぶことは実にたくさんある。これは親や教師、地域住民などの団体や個人が、自らの創意による学校を作り、それを州や学区の教育委員会等が特別許可(チャーター)を与え、公的資金を投入して社会的に支えていく仕組みである。98年10月現在で、全米34州に1,285校が開校するに至っており、クリントン大統領は、2000年までに全米で3,000校に増やすことを提案しているとのことである。既存の画一的な公立学校とは異なる、いわば市民による「手づくりの公立学校」であるが、原則として全ての生徒に門戸が開放され、そこに通学するかどうかは生徒の選択に委ねられる。また、チャーター文書には教育プログラム、学校の使命、達成されるべき成果等が明記され、その条件が達成されなかった場合は、チャーター期間(一般に5年程度)は更新されず閉校となる。公的資金を受けて運営される公立学校である以上、アカウンタビリティー(結果責任、あるいは説明責任)が求められるという考えに基づくものであり、金田氏は、「チャータースクールに学ぶべきは、システム自体もさることながら、それを支える自立の精神と多様な価値観である」と語っていた。
ホームエデュケーションは、文字通り家庭での学びを社会的に認知しサポートしていくものである。スウェーデンでは6歳の時点で学校に行くかどうかを確認するとのことであり、デンマークでは親がホームエデュケーションを希望すれば、近くの学校がカリキュラム作りなどの援助者になるという(尾木直樹「学校を救済せよ」などより)。
これらは、「5分の2」だけに認められるといったシステムではなく、市民一人ひとりが自己責任により選択し、社会的に有用かつ必要な教育として丸ごと認知されるものであり、「構想」のような、留保付きのケチな「多様な選択」とは「似て非なるもの」である。
(5)対抗軸はオルタナティブな教育の創造
もちろんこのような制度は、学校法人開設に係る徹底した「規制緩和」を含む、学校教育法などの抜本的改正を抜きに実現は不可能であり、すぐに日本に導入される可能性は極めて小さいであろう。
しかし、すでに日本においても、全国各地で様々な、そして膨大な数のフリースペースやフリースクールが運営されている。その多くは、登校拒否の子どもたちや親、支援者が手探りで作っていったものであり、規模も小さく、既存の学校制度がカバーしている学習領域に比べれば、極めて狭い範囲のものであろう。しかし、それを必要とする人々が自らの智恵と労力により創造したものばかりであり、「現在の学校においては教える側にも学ぶ側にも、進んでそれに従事するという動機と意欲が低下」するような弊害は免れている。
何よりも、学校とは「お上」が作ってくれるもの(私立学校といえど学校法人の認可を必要とする)という観念を打ち破る具体的な実践が、このような形で広がっていることは、明治政府が近代学校制度を発足させて以来、初めての出来事であろう。そして、日本でも開花しつつあるNPOの仕組みを活用するならば、このような取り組みはさらに発展する可能性が開けるであろう。制度改正に先行して、主体の側の条件は徐々にではあれ形成されつつある。
「構想」に対抗しうる教育改革は、このようなオルタナティブな教育のシステムを創造する運動とそれを担う「市民力」の形成・発展にかかっているのではなかろうか。教育労働運動もまた、従来型の既得権擁護の運動ではなく、これらの流れと連携することなしに活路を見いだすことはできないと思われる。
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