市民が提案する
「国営瀬戸海上の森里山公園」のマスター・プラン

 

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 4)1987年の写真判読


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 高度成長期に入ると、全国的に人工林の造成と山間部の農業の衰退が起こったことは先に述べた通りですが、海上の森でも例外ではありません。今から12年前の1987年の航空写真(カラー)では、人工林がさらに増え、現在とほとんど変わらない人工林の分布となりました。海上の里の南の山は皆伐され、スギ・ヒノキが植えられました。篠田池の北部の山にも、広い面積の人工林が植えられています。一方、広葉樹林はそのまま成長し、こんもりとした森になっています。ほとんど人手が入ったことがないような状況です。ただ、海上砂防池の北の山には、大木を切り残して皆伐した広い面積の森があります。物見台の林道が新しく作られていますので、その皆伐は林道の開通によって県有林の計画的な伐採作業であったと思われます。現在は人工のスギ・ヒノキと広葉樹の混交林になっていますが、人工林を切って雑木林にします。

 田んぼは著しく減少しています。残っているのは、海上の里周辺だけであり、かつて耕作されていた山間部の田んぼはすべて消滅しています。それには、高度経済成長による都市化・工業化によって、農民が流出したことが大きな原因でしょう。耕作する主体がいなくなっては、田んぼは保てなくなるのは当然です。いわば、この地にも「過疎化」の波が押し寄せてきたと言えるでしょう。

 以上のような海上の森の変遷から、他の里山にはない海上の森の特殊性を挙げるとすれば、「官」と「民」との管理が混在している森であるということです。江戸時代の尾張藩から受け継いだ県有林が広い面積を占め、藩とか県とかの大きな力によって、伐採も植林も大規模に管理されていました。一方、民有地の里山林に関しては、戦中・戦後の皆伐による丸刈り化の後、森に人手が入ることがほとんどなくなるなど、時代の農林業政策の変化に呼応して、激烈に変化してきました。その後、人工林の植林時代となり、海上の森の約3分の1は人工林となりましたが、それもすぐに木材の自由化により森林管理が行われなくなり、森の荒廃が進んでいます。現在の人工林の間伐の必要性は、県農地林務部の「瀬戸市南東部地域自然環境保全調査(人工林・常緑広葉樹林)」にも指摘されています。

 戦後、官の政策により一斉に皆伐されたために水害や土砂災害をもたらしましたが、時代の状況があったとはいえ、山の管理としては大きな失敗でした。官の政策によって多大な被害を伴うものでありましたが、一方では、海上の森の3分の2が県有林であったため、「民」からの開発の圧力から免れてきたという効果もあって、海上の森が破壊されずに残されたとも言えると思います。

 以上のように、わたしたちの調査で、愛知県全体の里山の中において、海上の森をふくむ猿投山一帯が連続した広い広葉樹林が繁茂し、地形地質構造から来るモザイク状に配置された多様な環境や貧栄養湿地の存在が、著しい生物の多様性を保持してきたことが分かりました。歴史的にも、官・民の管理の下、財政や生活と結びついて森林が姿を変えながら持続されてきた、興味深い地域です。しかし、今回の「官」による万博・新住事業や道路事業は、海上の森の歴史性を無視し、海上の森の自然を根底から破壊してしまうものです。このような変遷をたどった海上の森の里山環境こそ、今度は「官」を県から国に変わってもらって、国営の里山公園として整備して、後代まで末永く残したいと思います。

 

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