市民が提案する
「国営瀬戸海上の森里山公園」のマスター・プラン

 

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 3)1965年の写真判読


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 次に、高度経済成長が始まった時期の1965年に航空写真が撮影されています。米軍の航空写真が撮影されてから17年も経過していますので、全体に山の樹木が大きく生長しています。この写真の顕著な変化は、海上の森の東部や南部地域の県有林のところどころにに大規模な皆伐が始まったことです。その後の写真を見ると、そこはスギ・ヒノキの人工林となっていますので、計画的に人工林の造成が行われたと考えられます。禿山だったところは著しく回復し、わずかに山の尾根部分に残っているだけです。56年頃からプロパンガスが入って、70年代には山から薪を取ることがほとんどなくなったといいますから、里山林に手が入らなくなったのはこの頃です。

 この時期には、砂防用の池として篠田池が建設されて水を溜めています。その場所にあった田んぼは池となりました。他の田んぼ分布はほとんど変わりませんが、奥地では耕作放棄が起こったことが読み取れます。吉田川流域の河谷に沿う田んぼや、赤池の上流部の田んぼは放棄されています。聞き取りによれば、この数年前(1958年)にこの地に大きな集中豪雨があり、海上の里の東の山が崩れて家屋を押し流したことがきっかけで、数軒の農家が村を出ていったといいます。そのような耕作農民の減少が、田んぼ耕作を維持できなくさせたのではないかとも思われます。

 海上の森の谷筋のいたるところに、砂防用の堰堤がたくさんあります。いかにも古そうな石組みの堰堤がありますが、それはわずかです。しかし、コンクリートの堰堤は異常なほどたくさんあります。おそらく高度経済成長期以降に、その多くが築堤されたものと思われます。それほど、丸刈り化によって、土砂流出などの被害が大きかったといえましょう。また、それらの砂防工事によって山が安定し、土砂流出や山地崩壊が減少したことが、かえって崩壊等による森の更新を少なくさせる結果ともなったと思われます。

 

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