2.なぜ、「里山」が重要なのか?
近年は、里山のような「身近な自然とのふれあい」に、多くの人々の関心が高まってきました。高度経済成長期以降の都市化の進展に伴い、住宅地の開発、工場用地の開発が盛んに行われ、都市近郊の里山が開発の対象とされて、急速に身近な自然が失われてきたからです。農山村の過疎化が進行し、農業従事者の減少をもたらしました。拡大し高密度化した都市の住民は、そのストレスを癒し人間性を回復するために、海や山の自然を求めるようになり、観光ブームと呼ばれる現象を招き、リゾート開発が全国に行われてきました。ゴルフ場開発などにも里山がねらわれ、大規模に開発されてきました。都市の産業廃棄物の処分場も、主として里山が開発の対象にされています。
このような里山開発の圧力の中で、開発からかろうじて残された、都市近郊の雑木林や豊かな自然が残っている里山に目が向けられるようになったのです。里山は、北海道の知床や日本の中央高地のような原生自然ではありません。しかし、そこには、多様な動植物がたくさん生息しており、それに親しむことによってほっとしたいという要求が人々を里山に引き付けているのです。都市住民による里山の探鳥会、自然観察会などが活発に行なわれるようになりました。都市住民と農民との産地直売運動は、規格化されている大量生産の農産物よりも良いということで、都市住民と農民とが直接に結びついて発展してきました。無農薬・低農薬農作物の販売も急速に拡大しています。
最近では、自然とのふれあいも、自然観察やハイキングを楽しむというだけではなく、ボランティアによる農山村の森林伐採・下草刈りなどの汗を流す労働作業を通して、自然体験を楽しむ人々も出てくるようにもなりました。ある自治体が放棄された休耕田を買い上げ、耕作者を募集したところ、近隣から他府県の人まで数十倍の応募者があったといいます。これは、農山村が、都市住民にとってのアメニティー空間として再評価されている証拠です。里山の自然と文化は、都市住民の人間性の解放の場、癒しの場ともなっているのです。
里山は、その自然だけが貴重なのではありません。田んぼ耕作や薪や炭の生産などのために、これまで農民が苦労し汗してきたこと、ため池・用水管理、農耕技術、生産技術そのものが文化です。農具とその使い方、農業のこよみ、家屋の建て方、カヤぶきの屋根、家畜小屋、家畜の世話など、そのものが文化です。村では、農村共同体を維持する神社の祭礼が、地域毎に行われます。道祖神信仰・地蔵尊信仰などもなつかしい里山文化です。それらは、里山の自然と分かちがたく結びついて存在しています。山菜取り・キノコ刈り・川魚取りなどは、里山の生活と結びついた遊びの文化でもあります。
一方、1993年には、「環境基本法」が制定されました。それには、原生自然ばかりでなく、人手が加わった「二次的な自然」が大切であるとして、その保全を求めています。二次的な自然とは、まさに里山です。また最近は、「農業基本法」を改め、「食糧・農業・農村基本法」が制定されました。それは、水田耕作などの農業が単に食糧生産を担うばかりでなく、水害や土砂災害の防止などの国土保全機能、人々と自然との触れ合いなど多くの機能を持っていますので、その価値を見直し、農業と農村を守ることの大切さをうたっています。まさに農業・農村が、環境基本法でいう「二次的自然」としてそのあり方が見直されてきたということです。
開発されたとはいえ、里山の二次的自然は、日本全国に広い面積にわたって存在します。先に述べたように、いかにして里山の自然と文化を守るかが、日本の荒廃しつつある自然環境をよみがえらせる決め手であると言っても過言ではありません。それは、身近な動植物を保護し、多様な生物種を保存していくためにも極めて重大なのです。1960年代以前の里山は、まさに「持続可能な開発・利用」をしてきたシステムです。自然の恵みを余すところなく活用し、そのまま自然に戻す、ほとんど廃棄物を出さない、まさにゼロ・エミッションの社会です。
「持続可能な開発」ということが世界の環境問題の要であることは誰しも認めるのですが、それは掛け声ばかりでその具体策は提示されていません。日本の里山こそ、世界の人々に誇るべき持続可能な開発の技術・文化です。現代人の心の拠り所として、また未来の社会再生のキーワードとして、里山の存在の重要性が増しています。海上の森で「環境万博」をするというなら、海上の里山環境を復元する過程を出展することこそふさわしいのではないでしょうか。
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